・石原莞爾は戦争にずば抜けて長けていた、関東軍たった一万程度の兵で、近代装備を持つ22万の張学良軍を、僅か三か月という短期間のうちに制圧、日本の約3.5倍の広さがある満州全土を占領した(p14)
・もしミッドウェー海戦に敗北して米軍による反攻が始まった昭和17年の時点で、戦線を一気に縮小し、マリアナ諸島に強靭な要塞を築いていたら、アメリカの補給線が伸びきっただろう(p20)
・最初に処分を受けたのは「朝日新聞」、昭和20年9月15日付で、原子爆弾の投下を批判する記事を掲載し、17日付で日本軍を擁護する内容の記事を掲載したことに対して、9月18日に2日間の業務停止命令を下した(p25)
・昭和13年から始まった日本軍の重慶爆撃を、アメリカは国際法違反としたが、終戦後はそれを非難しなくなり、重慶爆撃の指揮官を東京裁判の戦争犯罪リストから外した(p67)
・1945年2月に米英軍によって行われた、ドイツ・ドレスデン空爆の民間人の犠牲者15万人を意識している(p76)
・昭和19年6月19-20日かけてのマリアナ沖海戦で、大型空母三隻、投入した航空機498中378隻を失い、西太平洋の制空権と制海権を失った、7月にはサイパン島に続き、グアム、テニアン島が陥落して絶対国防圏は突破された(p90)
・10月23-25日にかけての、レイテ沖海戦で、残存する海上戦力の全力を挙げて攻撃したが、空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻を失って、米軍に対する能力を完全に失った(p92)
・硫黄島を手に入れたこと(昭和20年2-3月)で、護衛戦闘機の直援をうけたB29による、昼間の中高度以下の爆撃が可能となった(p93)
・硫黄島では、約2万2000人からなる日本の守備隊は全滅したが、米軍は島嶼戦で初めて敵よりも多くの死傷者を出した。投稿した兵隊も皆無に近かった(p101)
・日本に原子爆弾を使用することは、昭和19年9月に、使用方法は20年6月に決定していた(p117)
・日本との戦争を終わらせる4つの選択肢は、A案:原爆使用、B案:ソ連参戦、C案:降伏条件緩和の声明、D案:本土進攻作戦、アメリカの国家指導者たちのほとんど統一した見解は、C案であり大統領に勧告していた(p121)
・7月25日に伝達された文面には、有視界攻撃な天候になり次第、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかを目標として、最初の特殊爆弾を投下せよとした(p142)
・ポツダム宣言は、日本を「降伏させる」ための勧告ではなく、日本を「降伏させない」勧告であった(p162)
・ポツダム宣言は、イギリス・アメリカ・中華民国の三か国宣言として発表された、ソ連が署名国になれなかったので、スターリンの予定が大きく狂った。日本とソ連は中立条約を締結し有効であった。ポツダム宣言にソ連が加わり、これを拒絶した場合には、条約は実質的に無効化される(p164)
・ポツダム宣言に対して、宥和派は、首相・外務省・陸軍省、主戦派は、陸軍省・参謀本部軍令部、であった(p179)
・もしポツダム宣言に、スターリンの署名があったら、日本はアメリカと直接交渉する以外に取り得る道は無かった。ポツダム宣言にソ連が加わっていたら、ソ連を通じての和平交渉があり得ないことが悟れた(p181)
・昭和天皇がポツダム宣言受託による終戦をご決意されたのは、広島長崎への原爆投下ではなく、ソ連参戦であったことは明白(p207)
・8月14日にポツダム宣言受諾を決定すると、15日未明、本土決戦を望む陸軍の青年将校たちが決起した。近衛第一師団長を殺害して、偽の師団長命令書を発して、皇居を軍事占領した。ソ連参戦後でさえこのようなクーデター未遂事件があった(p219)
・ハーグ陸軍規則(1899年)によれば、防守都市と、無防守都市を区別し、占領に対して抵抗する都市(防守都市)については、無差別攻撃が許されるが、そうでない都市については、軍事目標のみが許され、市街地への攻撃は違法である(p247)
・真珠湾では戦闘員が攻撃対象であったが、アメリアの原爆投下では非戦闘員が対象(p249)
・原爆投下の理由として、1)ソ連に対して優位な立場にたつ、2)マンハッタン計画費用(現在の価値で230億ドル)の正当化、3)ルーズベルト政権で作られた空気、4)人道精神欠如、5)人種差別意識、がある。結論としては、1)であろう(p262)