・清の康熙帝のころは、3400万ヘクタールで1億人を養っていた。国庫はお金で溢れかえり、税金を軽減していたほど。乾隆帝の時代になると、5000万ヘクタールに対して、人口は3億人となった(p18)
・西太后は、100万両あれば最新戦艦が買えた時代に、自分の還暦祝いに800万両、頤和園建立に2500万両をかけた(p28)
・科挙の殿試において、第一位は「状元」、二位は「耪眼」、三位を「探花」といった(p34)
・歴史・伝統(下部構造)の中から、「制度・学問・思想」などという文化(中部構造)が生まれ、そしてその中から、「システム・技術」という上部構造が生まれる。清は、軍事改革の前提として、社会・教育・行政改革が必須なのに、軍艦や銃火器だけを仕入れようとした(p37)
・日本の「和魂洋才」が、清の「中体西用」との違うのは、下部構造と上部構造の接着剤の役割をしている「中部構造」を、二重構造として、その下側は「和魂」、上側を「洋才」として、その接着面をぴったりとマッチさせるようにした(p39)
・漢民族を「華」と呼んで、唯一の文明人とした。北は「荻」と呼んで、犬コロ類、西は「戎」として、ケモノ類、南は「蛮」として、虫けら、東は「夷」と呼んで、野蛮人と見做した。これが中華思想である(p40)
・中国と朝鮮は、1)幼君、2)暗君、3)傾国の悪女、という条件が揃った。当時の日本にはそのようなことはなく、それが極東3国の運命を変えた(p47)
・暗記は、どうしても物事が理解できない最終手段、理解しろ、考えろ、そうしたとき初めて、知識が役立つ知識となる(p48)
・清国がアヘン戦争で負けるのをみた(1842)幕府の強気姿勢は一気に崩壊、薪水給与令を公布した(p56)
・遊牧民族(白人)にとって、侵略・征服・略奪・搾取は、正当な権利・正義そのもの、である。働くのは奴隷の仕事という考え方(p60)
・日米和親条約は勅許が下りている、補給基地としての開港であり、通商のための開港ではないので(p68)
・公武合体の中心人物二人(孝明天皇、将軍家茂)をたてつづけに失ったので、公武合体は崩壊し、尊王派が活気づく(p73)
・征夷大将軍とは、そもそも、防衛大臣にすぎない、天皇が「一時的に統治を委託している」に過ぎない。何かあれば政権(大政)を返す(奉還)するのは当然とも言えた(p74)
・王政復古の大号令にて、5つの藩兵(土佐、薩摩、尾張、越前、安芸)によって警護された(p76)
・欧州では、封建諸侯を一掃するのに、200年前後の時間と戦争が必要であった、日本は廃藩置県で完了(p87、97)
・版籍奉還は、大政奉還・辞官納地の、「大名版」ともいえる、奪うのではなく「国替え」という言葉のトリックがあった(88)
・台湾出兵により、清朝は、賠償金・見舞金の合計、50万両を支払った。日本が使用した戦費の10分の1だが、台湾以東の領有権を確認できたのは大きな効果(p104)
・当時世界屈指の金保有国であった日本の金塊は、あっという間に吸いつくされて庶民の生活は壊滅した。1ドル銀貨4枚が、12枚になるという為替レートを利用した(p136)
・清朝にはすぐれた政治家がいたが、イギリスを後ろ盾とした対日海軍増強、フランスを後ろ盾とした、対露陸軍増強、宮廷を後ろ盾とした、対仏のための軍備増強する考え方があった(p144)
・甲申事変の後の天津条約(1885)以降、日本は清国の脅威に直面して、それ以降、死にもの狂いで軍拡をした(p153)
・122代明治天皇がポケットマネーを30万円出した(戦艦1隻250万円の時代)、それを見て全国から義捐金が200万円集まった(p160)
・日清戦争は、じつは、薄氷を踏むがごとき「辛勝」の連続で、いつも敵の失態に救われたものであった(p184)
・香港九龍南部は永久割譲地、新界は「99か年租借地」であったが、新界・香港は表裏一体の経済区として活動してきたので、一括返還となった(p212)
・人は肩書に忠誠を誓うのではなく、恩恵に忠誠を誓う(p228)
・八か国共同出兵は、イギリスがロシアが独り勝ちしてしまうので、日本に出兵を要請した。8か国となっているが、実際には日露連合軍であった(p241)
・白人たちは、反乱に対して自ら武器を取って戦うのではなく、ライスクリスチャン(食い扶持を求めて信者になった人)を先頭にたたせて同じ民族同士で殺し合わせる。披露しきったところへ、本国軍がやってきて制圧する、これが通用しなかったのが日本(p244)
・伊藤博文に要請された、金子賢太郎は、アメリカの財界はロシアとの縁戚関係にあるものが多く、アメリカを説得するのは難しいと言葉を発した(p272)
・ロシア艦隊は、旅順と仁川、浦塩に入港していた。陸軍を運ぶために、陸海軍の主張を聞き入れる形で、仁川艦隊を攻めることになった(p281)
・南山の戦い1日(5月26日)で、日清戦争で消費した全砲弾量と、その戦死者数を超えてしまった(p286)
・当時招聘していた欧州の軍事教官は、宣戦布告してから戦争を始めるのは愚かな行為であると教えている。これが卑怯となったのは、太平洋戦争「後」である。国際外交法規上の不備を糾弾しようとしたが何も見つからなかったので、仕方なくその概念を導入した(p288)
・三笠の主砲から放たれた運命の一弾が、敵旗艦の指令室に命中、提督以下、司令部の人間が消失、かろうじて残った艦長が、旗艦権委譲信号を送ろうとしたときに、第二弾が指令室に飛び込んで、操舵不能となった(p295)
・当時の国力差、歳入:2.5億円の日本に対して、ロシアは20億円(8倍)、陸軍、日本の20万程度に対して、10倍の200万、海軍は、日本の26万トンに対して、3倍の80万トン(p302)