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イラスト図解 感染症と世界史 人類はパンデミックとどう戦ってきたか

イラスト図解 感染症と世界史 人類はパンデミックとどう戦ってきたかの写真

・歴史には「流れ」というものがある、それは動かない時には誰がどんなに望もうが暴れようがテコでも動かないのに、一度動き始めれば今度は誰がどんなに止めたいと願おうとも潮流を止めることは何人たりともできない、それどころか逆らうものは、例外なく歴史によって抹殺され、崩壊する。逆に、歴史の流れに乗るものは繁栄を謳歌することを約束される。歴史が動かない時代を「泰平の世」と言われ、動く時代が「乱世=激動の時代」と呼ばれる(p6)

・事が起こる前に入念に調べ準備しておいた者だけが「時代の荒波」を乗り越える事ができ、ただ自己の境遇を嘆くだけで自ら動かず、他者に責を求めながら他者の援けを待つだけの者は、歴史の渦に飲み込まれていくことになる、そのためには「歴史から学ぶ」事が大事である(p8)

・感染症との関係が劇的に変わったのは、人類が農耕を開始した1万1000年前、狩猟採集時代に比べ、狭い土地で多くの人が生活できるようになり人口が大幅に増加、土地に定住するようになった。定住による出産間隔の短期化が原因となる(p17)

・インドのカーストは階級の固定化により人との交流は同一階級内でのみ限定的になる、この制度により他の階級との接触を絶ち、感染症の蔓延を限定的に止めようとしたとの説もある。感染ルートを定められなかった時代、インドの人々はカーストの設定によってクラスターを作らないようにしたのかもしれない(p33)

・395年に東西に分裂したローマ帝国だが、西ローマ帝国は蛮族の侵入、各地の反乱により疲弊して476年に滅びた。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、地中海を支配して強大な力を保持していた。当時の世界の中心は西欧ではなく、アナトリア半島やペロポネソス半島を中心とした地中海東岸であった、527年即位したユスティニアヌスは失われたローマ帝国領の回復を始めた、536年には東ゴート王国からローマを奪還した。しかし541年から始まるペストの大流行により頓挫した(p47)

・古代ギリシア文明の頃から地中海沿岸部が欧州文明の中心であったが、ユスティニアヌス以後、中心は北部に移っていく、人口が少なく田舎だった北部の方がペストの被害が少なかったからだろう、カール大帝が800年にローマ教会の庇護者として戴冠されるなど、フランス・ドイツを中心として欧州秩序が形成されていった(p48)

・奈良時代の日本では天平文化が開いていたが、735年頃から疱瘡=天然痘が流行している、遣新羅使が帰国するタイミングであることから新羅からもたらされたのだろう、当時の人口の3割に当たる100万人が死亡したと推定される(p56)

・中央アジアで起こったペストの流行は1331年に中国で大流行、1334年には河北省で人口の9割である500万人が死亡した、当時8000万人いたと推定される欧州の人口の60%がペストにより死亡、小さな共同体では消滅してしまうところが出た。1353年にようやく流行は治るが、その後も小規模な流行を繰り返した。(p70)

・ペストの流行に対してなんら有効な手立てを打つことのできなかったカトリック教会の権威が低下、人々は偏狭なキリスト教以外に救いを求める。キリスト教が生まれる前の、豊かで人間味に溢れていた古代ギリシア・ローマ時代への回帰運動=ルネッサンスが盛んになった。これより教会の権威から離れて芸術、学問が発展していくことで技術や思想の革新が起きる、15−16世紀には宗教改革として結実する。14世紀のペストの大流行は中世を終わらせて近世に突入するきっかけを作った大転換となった(p70)

・アステカ王国は、1521年にスペイン人コルテスが侵略戦争を仕掛けてきた際には、敗走寸前まで追い込んだが、戦闘による接触でアステカ兵に天然痘が感染、結果的に組織的抵抗が不可能になりコルテスの軍門に降った。インカ帝国は、天然痘の流行により人口が激減、1533年にはスペイン人ピサロにより征服された(p73)

・感染症から辛くも生き延びた先住民たちは、次々とキリスト教に改宗していく。アステカやインカでは生きたまま生贄の心臓をくり抜いて神に捧げるなどの儀式を行う宗教が奉じられていたが、感染症を経て彼らはその神の力を疑問視、結果としてスペイン人の神が優れているとしてキリスト教徒になった(p74)

・産業革命は1733年に発明されたジョン=ケイの飛び杼で起こったという説もある、この飛び杼が結核の流行に拍車をかけた、職工はこれを使用する際に、口に含み、それを別の職工が使い回すので結核が広く伝染した(p86)

・ナポレオンはロシアから撤退する際、ロシア軍のコサック騎兵、経験したことのない酷寒、凍死や戦病死の犠牲者は22万人(戦闘による戦死者10万人)だったので、味方(プロイセン、オーストリア、スウェーデン)を見捨ててフランス領内へ戻ったので、彼らはイギリスも加えてロシアと同盟、新同盟軍はナポレオンに勝利する(p90)

・コレラが飲水によって感染するという事実は画期的な発見であった、クラスターを特定して発生源を突き止める手法として現在でも使われている。スノウの指摘によって、下水道の整備が進み、市街の衛生環境も整うようになってきた(p103)

・第一次世界大戦の戦死者は900−1000万人、スペイン風邪での死亡者数は2000−5000まんにん、感染者は6億人、当時の人口は約18億人だったので人類の3人に一人がこの病気の脅威に晒された(p125)日本では政府の公式記録によれば感染者、約2300万人、死者は38万人、当時の日本人口は5666万人であったので、日本の半分が完成した。事態が落ち着くのに2年以上もかかった(p130)