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歴史・経済・文化の論点がわかる お金の日本史 完全版 和同開珎からバブル経済まで

歴史・経済・文化の論点がわかる お金の日本史 完全版 和同開珎からバブル経済までの写真

本書は、日本史を「お金」という視点から読み直し、貨幣、税、貿易、金融、資源、戦費、インフレとデフレが、政治や社会の変化をどのように引き起こしたかを論じた一冊である。

著者はまず、古代国家の成立を東アジア情勢と貨幣から捉える。天智天皇と天武天皇の対立の背景には、唐に対して強硬姿勢を取るか、協調するかという外交方針の違いがあったと考える。天智政権が白村江の戦いで唐に敗れた後、反対勢力が天武を擁立し、天智の子である大友皇子と天武が戦ったのが壬申の乱である。単なる皇位相続争いではなく、国家の進路を決める一大内戦だったという(p18)。

その後、日本は独自の元号を用い、和同開珎を発行した。当時、高句麗など周辺諸国が中国の元号や貨幣制度を受け入れていたのに対し、日本は独自の元号と貨幣を持つことで、中華秩序からの独立を示した。著者は和同開珎を、唐に対する日本の「独立宣言」と位置づける(p33)。

東西の貨幣の違いも紹介される。西洋の貨幣は金や銀そのものの価値を持つため、重量をそろえる鍛造貨幣が中心だった。一方、中国の銅銭は政府が価値を保証する信用貨幣であり、鋳造による多少の重量差は問題にならなかった(p37)。日本にはすでに弥生時代から高度な銅鋳造技術があり、厚さ約2ミリの銅鐸は、現代でも完全な再現が難しいほどの技術水準だったという(p39)。

貨幣単位も経済の発展とともに整えられた。室町時代には銅銭千枚を一貫文とし、四貫文と金一枚を交換する慣行が生まれた。江戸幕府はこれを整理し、一両小判と、一両の四分の一に当たる一分銀を発行した(p51)。

日本の政治や経済は、米を中心に形成されてきた。北海道が長く本格的な征服対象にならなかったのも、米が収穫できなかったためである。ほかの資源があっても、米が取れない土地は当時の日本人にとって価値が低かった(p77)。

鎌倉幕府も当初は東国中心の政権であり、西国は朝廷の影響下にあった。しかし、後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗れたことで、幕府の支配は全国に広がった(p82)。関東・関西という呼称も、壬申の乱後に東国勢力の移動を警戒して設けられた不破関などの関所を基準とする(p83)。

中世を動かした戦略物資は石油や石炭ではなく、火薬の原料となる硫黄と硝石であった(p89)。また、西国では貨幣経済が発達し、「借上」と呼ばれる金融業者が登場した。室町時代には、多数の蔵を持つ「土倉」や、酒造業を兼ねる「酒屋」が金融業者を意味するようになった(p93)。

鎌倉武士の没落にも金融問題が関係した。当時は財産を子供たちに分割相続したが、御家人としての軍役義務は長男が引き継いだ。所領が細分化されても義務は減らず、多くの御家人は土地を担保に金融業者から借金し、返済できずに所領を失った。その不満が後醍醐天皇への期待につながったが、建武政権が公家優遇だったため、武士は足利尊氏の下に集まり、室町幕府を成立させた(p97)。

関所と関税も経済を停滞させた。朝廷は荘園という脱税制度によって米収入を失い、京都の入口に関所を設けて通行料を徴収した(p109)。やがて各地の勢力が私的な関所を設け、荷物の価値に応じた事実上の関税を課した。自領だけ撤廃すると他領から来る商品だけが高くなり、不利になるため、誰もやめられない構造が生まれた(p113)。

この仕組みを打破したのが織田信長である。信長は関所を撤廃し、楽市楽座を進めた。座の背後には巨大な利権団体である寺社勢力が存在したため、廃止は極めて困難だった(p119)。信長は寺社から得た資金を経済環境の整備に使い、商人の支持を得たうえで課税した。一方、毛利、武田、上杉、北条など旧来型の大名は、金山・銀山という別の財源を持っていた(p143)。

戦国時代の軍隊の大部分は専業武士ではなく、農民から徴兵された足軽だった。農繁期には大量動員できないため、農業と戦争は密接に結びついていた(p135)。秀吉の刀狩りは、僧兵や足軽として戦争に参加していた僧侶と農民を武装解除し、兵農分離を完成させる政策だった(p168)。

鉄砲普及にも経済的背景があった。種子島時堯は、鉄砲だけでなく火薬製造法も根来寺や堺商人に無償で提供した。硝石を輸入に頼らざるを得ず、寺社や商人の流通網が不可欠だったからである(p162)。

秀吉は世界最大級の金貨である天正大判を発行した。大判は約165グラムの金を含み、小判十枚分に相当した(p170)。一方、天下統一後には大量の専門軍人が失業する問題が生じた。著者は、秀吉の朝鮮・中国侵略を、軍事人材の雇用を維持するための行動として捉え、アレクサンドロス大王、チンギス・ハン、ナポレオンにも共通する「世界史の法則」と説明する(p174~175)。

幕末の開国問題では、外国事情の不足よりも、朱子学と祖法重視の思想が幕府を縛ったとする(p224)。アメリカは当初、日本との貿易と共存を求めたが、日本が拒み続けたため、武力で開国を迫る方向へ変わった(p191)。最終的に日本が結んだ不平等条約には、領事裁判権と関税自主権の欠如という二つの大きな問題があった(p228)。

開国時、日本では金銀比価が一対五だったのに対し、国際市場では一対十五だった。この差により、日本の金は外国銀貨と交換されて大量に流出した。幕府は小判の金含有量を大幅に減らした万延小判を発行して対応したが、これは現代でいえば紙幣の大量増刷に等しく、激しいインフレを招いた。最も打撃を受けたのは固定給で暮らす武士であり、この経済混乱も幕府崩壊の一因となった(p232)。

明治政府は、版籍奉還によって土地と人民を藩から国家へ戻し、近代国家を成立させた。その後、土地の私有を認める一方、米納だった租税を金納に変える地租改正を実施した。地券を発行し、地価の三%、後に二・五%を現金で納めさせた(p297)。

新貨幣の一円は、当初一米ドルと等価になるよう設計された。金貨・銀貨の含有量をドル貨幣と同じにすることで、国際通貨制度へ接続したのである(p305)。

著者は、日本では財政健全化やデフレが過度に評価され、インフレやバブルが罪悪視されてきたと批判する。江戸時代の三大改革はいずれもデフレ政策で、商人文化を抑圧した。これに対し、荻原重秀の貨幣改鋳や田沼意次の政策は、通貨量を増やして景気を刺激するインフレ政策だったが、後世の新井白石や松平定信によって否定的に評価された(p307)。

近代以降、戦争には莫大な資金が必要となった。日清戦争の戦費は当時の国家予算約三年分に当たる二億三千万円、現在価値で約二・三兆円とされる(p313)。日露戦争では国家予算約五年分に相当する十七億円を費やし、そのうち十四億円を戦時国債で調達した。国内の円建て国債と海外のポンド建て国債がほぼ半分ずつだった(p338)。この勝利によって日本は欧米列強と対等な国家として認められ、大使の交換や外国人居留地の廃止へ進んだ(p362)。

本書が示すのは、貨幣は単なる交換手段ではなく、国家の独立、権力、戦争、土地制度、階級、外交を動かす力だったということである。日本史の転換点には常に、お金を誰が発行し、誰から徴収し、何に使い、誰がその負担を引き受けたのかという問題が存在していた。