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summary

禁断の中国史

禁断の中国史の写真

・歴史上「中国」という国はありません、そんな国が存在した歴史はどこにもありません。私たちに馴染みの深い「秦」「漢」「唐」「明」「清」は、いずれも違う国です。同じ場所にあるから、東ローマ帝国とトルコ共和国が同じ国だと思う人はいません。民族も違う。中国という国はないので、中郷人というのも本当は存在しないことを頭のどこかに入れておいてください(p3)

・漢書地理誌によると、漢の全盛期に精密な戸籍が作られていて、その数約6000万人とされている。それが数十年間で、少なく見積もった史料では、500万人である、多く見積もった史料で1500万人である(p29)漢が滅んで三国志の時代になるが、約100年間も統一されなかった理由は、大雑把に言うと「人が少なかった」から、人口が10分の1位になってしまい兵隊の数が足らなくて戦えなかったのが実情である。三国志の殆どがフィクションである、当時の三国は、とにかく人を増やすために周辺国へ行って人狩りをしていた(p30)

・唐が滅んだ後に、五代十国(907-960)を経て(普の滅んだ後の、五胡十六国時:304-439とは別)を経て、宋ができる、宋は一般的に漢民族の国家と思われているが、宋を建てたのは遊牧民の「突厥」である。宋は強かった「金」と組んで遼を滅ぼすが、金が華北を奪い、宋は江南に逃げて南宋を建てる。それ以前の宋は、北宋という(p33)

・モンゴル人が漢民族を支配した元では、身分的にも最上位に置かれたのがモンゴル人で、そほ他の民族では、色目人(西城人)が次いで重要、その下に漢人(科目の漢民族と女真族)最下部に南人(華南の漢民族)が置かれる身分差別があったとされる。共通語は漢字を使うことになった、清においても同様、中国こそ北方民族の風習(辨髪、チャイナドレス;旗袍など)を取り入れたり、強制されたことが実は多い(p35)

・漢も明も、反乱軍が天下を取ったケースである、鎮圧されたケースは、「黄巾の乱」「太平天国の乱」「義和団の乱」がある、乱が起こるたびに人が殺されtげ、黄巾の乱では、人口が10分の1になった(p37)易姓革命として新皇帝とみなされたのは、漢を建てた劉邦、明を建てた朱元璋、明を滅ぼした清の李自成であり、いずれも元は無類の徒、貧しい乞食坊主、貧困農民である(p199)

・中国では家柄のいい家に生まれない限り、立身出世の道はまずない。中国は欧州や日本と異なり、中産階級がなく大半が農奴なのでひとたび飢饉が起きれば餓死する。戦争になれば虫けらのように使い捨てられる。この境遇から逃れる例外が2つ、1)官吏登用試験の科挙に合格する、2)宦官になること(p104)

・科挙の答案を書くときには受験生は注意しなければならないことがある、答案の中に皇帝の名前に使われている文字は畏れ多いので使ってならない。それではl困るので、他の字を使うようになっていた。元王朝の祖先の名前にあたる文字も同様で、それぞれに別の文字が用意されていた。また受験生は美しい字を書かなければなりません。汚い字や乱暴な字を書くと、解答がいかに素晴らしくても落第になる(p133)

・合格者の中で最高得点者は「状元」2位は「傍眼:ボウガン」3位は「探花」で、この3人は皇帝から直々に学位を授かる、この肩書きは生涯にわたってつけられる。郷試、会試、殿試の全てを主席で合格することを「大三元」といい、麻雀の役満の大三元はここからきている、解元・会元・状元に由来(p157)