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summary

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)の写真

・1804年にレザノフ(ロシア)に手渡した「教諭書」の内容は、我が国は中国・朝鮮・琉球・オランダと往来しているが、その他の国とは通信・通商しないのが国是である、というものであった(p24)

・当時のロシア(エカチェリーナ2世)は、軍隊ではなく商人の活動が領土を広げていった、戦争ではなく商業活動が国を大きくしていた。アリューシャン列島でとれる、乾魚・塩魚・鯨油・獣油を打って、日本から織物・米麦・銅鉄器を仕入れて商業をしようとした(p25)

・1806年(文化3年)レザノフの指令を受けたロシア軍艦ユノナ号が樺太南部の施設を襲撃した、これは露寇と言われている、ロシアは襲撃の首謀者を独断行動としてサハリンで投獄している(p30、39)

・ロシアとの対峙という前提があったので、日本の近代化、ペリーによる開国がある(p43)

・都市への人口集中により、米以外の商品の生産・流通・消費が増えたため、コメの経済活動における比重が小さくなった(p50)

・吉宗の政策は、1)新田開発、2)年貢方法の変更による増徴、検見法(毎年の収穫高から年貢量を決定)から定免法(年貢額を一定期間固定)へ変更(p52)

・田沼意次は、家重の小姓(旗本600石)から、老中へと昇進して、5万7000石の大名へと異例の出世をした(p54)

・幕府公認の株仲間となることで、特定商品の仕入れ・販売の独占権を保障するかわりに、冥加金を上納させた(p55)

・現代と異なり、税をとる代わりに対価として行政サービスを施すという考えを幕府は持っていなかった、年貢とは「地代」であり、家賃のようなもの(p58)

・浅間山の大噴火(1783天明3)は、天候不順による凶作が頻発し、関東では6月になっても冬物を着て過ごすほど寒かった、江戸の三大飢饉(享保・天明・天保)の中で天明飢饉が一番ひどい(p60、65)

・天明の飢饉により、幕府は、民に対して何の手当ても施さないと、飢饉ー一揆ー打ちこわしという連鎖が止められず、社会が安定しないことを悟った(p70)

・江戸時代後半では、行政を現場で支えていたのは、代官と村の庄屋の努力であった。郡奉行や代官には武士から、学問のあるそれなりの人物をつけることになっており、能力の高いエリートが多かった(p77)

・宝永4年(1707)の地震・津波は、東日本大震災までは日本史上最大級のものであった(p84、94,97)

・農書の普及とともに農村に浸透していったのが、読み書き能力で、人々は寺子屋に通った、そして科学的な農法・農具改良・二毛作を行って自分の取り分を増やそうとした、これは宝永以後にみられる(p106、108)

・徳川が滅びたのは、西洋から新兵器が入ってきて、石高=軍勢数=戦力、でなくなったから。譜代大名には、たいした石高を与えず、権力と戦力の分離をはかった(p118)

・島原の乱は、女子供さえ含む地域住民の大半が参加した一揆であり、百姓一揆とは明らかに異なる、一揆勢はすべて討ち取られたが、幕府側の痛手も大きかった、討伐軍の1割程度、全武士数が150万人であったが、その1%が死傷した(p130、135)

・生類憐みの令の具体的な条文は、「犬ばかりに限らず、惣て生類人びと慈悲の心を本といたし、憐み候儀肝要事」(p148)

・江戸時代になると、人が殺されれば捜査が始まるようになった、これが中世との違いである。(p146)