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家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)の写真

・何度も戦場になりやすい紛争場所は、大体決まっている、地形だけでなく、民族分布・文化の境目が歴史的に戦場になりやすい、これを研究する学問を地政学という(p18)現代の地政学では、アラスカ・ロシア国境・千島北方領土・竹島・尖閣・中越国境・カシミール・アラビア海・黒海・ロシアーポーランド国境と延びる線を「不安定の弧」と呼んでいる、ロシア・ウクライナ戦争もこの線上で起きている(p18)

・徳川家康も「まさかという坂」を二度経験している、一回目は桶狭間の戦いでの今川義元の死、二回目は本能寺の変での織田信長の死、である。人生の一大事でもあり転機となった(p27)

・家康はすぐには今川家を離れなかった、氏真に弔い合戦を呼びかけつつ、まず西の織田領への攻撃をしばらく続けていた。氏康は助けに来てくれないので、今川を見限ることにした、東三河を調略と言って外交謀略で自分の味方につけた(p29)

・徳川家が天下を獲れた秘密の一つは、軍団に武田旧臣を組み入れ、野戦戦闘力が異様に向上した点にある、これで秀吉軍をのちの長久手合戦で破った、これを見せた強さを信じて、関ヶ原合戦でも諸大名が家康に味方した(p33)

・小勢で大軍に勝つ戦い方は一つしかない、まず敵の大兵力が広く分散する瞬間を待つ、次に分散してから高速で自軍を移動させ、自分のほぼ全てを敵の一部にぶつけてダメージを与えて、さっさと引き上げる、味方の戦力を集中して、高速打撃・即時撤退「ヒットアンド・アウェイ」これをやるには、ハイレベルな諜報偵察力・機動打撃力がいる、目がよく見え、足が速く、敵を殴る力が強くないといけない、これは中小企業の生き残り戦略にも通じる。つまり、業界動向や顧客ニーズへの目が利き、コストをかけすぎず、素早く商品を開発して、速やかに販路を用意し、売れないときには柔軟に方向転換する、情報力・仕事の速さ・柔軟な意思決定が重要(p34)

・江戸幕府成立以前の日本人の感覚では、征夷大将軍は現代人が思うほど高い地位ではない、武家には名誉な地位だが、全体の政治で見ると、さらに上に、摂政・関白や三公(太政大臣、左大臣、右大臣)があり、席次でもその下になる地位に過ぎない(p37)

・中国や朝鮮とは直接付き合わず、間接的に付き合った、対馬の宗氏に朝鮮、松前氏に蝦夷地、島津氏に琉球と、仲立ちの窓口を作って、代理担当のいる外交であった(p44)

・全国3000万石の領地のうち、幕府は800万石を将軍と旗本の直轄領、さらに400万石を親藩・譜代大名、残りの1800万石を外様大名に与え、安易には取り上げない政策を取った(p50)

・海防の一環として、水戸藩が新たに助川城の築城を許された、五島列島の福江藩も石田城、函館には箱根奉行所だけでは守れないから、五稜郭が造られた(p62)

・天保通宝は、寛永通宝の200年後に小判形のものであるが、1枚で寛永通宝の100枚分(現代で5000円)の価値のあるコインであった、これが幕府の通貨政策の命取りになった。密造する藩が現れた、久留米・薩摩・土佐・長州藩などで、西国で雄藩となったところは、ほとんどが密造していた。家康が取った政策のように、中国の銭を使い続けるか、幕府は銭の発行を厳格に管理すればよかった(p66)

・江戸幕府はいきなり薩長に滅ぼされたのではなく、まず、一橋(徳川慶喜)・会津・桑名に実験を奪われている、これで権力が江戸から京都に移り、幕府の力は低下した(p99)

・朝廷は官僚機構を持っていないので、いきなり大政奉還で政権を返されても、行政ができない、そのうちに徳川方が有利になる、徳川宗家も天皇の新しい政権に参加して行政運営を行うようになると計算していた。会津藩など親徳川藩が御所を守護していたし、フランス流近代化を進めていた、大阪城も二条城も抑えていて軍勢もたくさんいて、薩長を制することができる状況であった(p107)

・そこで王政復古の大号令を出すクーデターを行った、御所の守護を幕府方から他の諸藩に交代させた、薩摩藩だけでは反発されるので尾張藩も仲間に入れた、これで薩摩の手に旗印としての幼い「天皇」が移ってしまった(p109)

未読破(109/237)