・彼の時代以前において、教義なき仏教や戒律なき仏教を支配していたのは、比叡山の坊主が唱える説であった、中世の日本においてはヨーロッパの中世期におけるカトリックと同じように仏教が国家の代用品であり、全ての節目行事は寺院に届けられて承認された(p7)
・平安時代は、貴族専制の門閥主義の上に、政治官職も世襲制、門閥にない人間が立身出世を望むには、出家僧侶という形を取る以外に無かった(p10)
・信長の楽市楽座は不徹底であり、市場の自由化を推し進めると同時に、他方で特権的独占資本(朱印状)を作り上げていった(p15)
・昭和16年真珠湾攻撃で米太平洋艦隊全滅を聞いたときルーズベルトは真っ青になっていた、同12月10日にチャーチルはプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが撃沈されたとき泣いた(p30)
・信長が金ヶ崎から逃げて朽木谷の朽木元綱のもとに数騎の供をつれて向ったとき、松永久秀が動いたので、元綱は信長を殺さなかった(p44)
・死体の効用は役に立つもので、もし信長の首が明智光秀の手に入っていたら、光秀の勝利は完全なものになっていた(p59)
・中国では何十万人でも穴埋めにする、ローマでは奴隷にするが元のまま戦士として使う例は少ない、敵の捕虜をそのまま戦士として使うのが日本的やり方(p78)
・信長は信長直属の専門武士を、必要に応じて秀吉、光秀等の方面軍司令官に貸し与えた(p95)
・光秀に従っていた信長の家来の忠誠の方向は信長に向いていたはずであるが、「敵は本能寺にあり」と宣言してからは、そうではなくなった(p96)
・本能寺から脱出したものは、宣教師から進呈された黒人くらいで殆ど、全員玉砕であったが、信忠の妙覚寺は大混乱、逃亡者が続出して、約二千のうち踏みとどまったのは400程度(p106)
・信長の定石外れの強襲が成功した理由の一つは、義元の大軍を、信長方の砦攻撃と、味方の支城攻撃に分散させて、本陣を手薄にさせたこと(p150)
・前近代的軍隊においては、涼奪、分捕を含む戦闘個人主義であったが、信長はこの原則を否定して、個人よりも各自の部署における任務の遂行に重きをおいた(p160)
・毛沢東の共産党軍が中国の民心を得た大きな理由の一つは、涼奪をしないから(p165)
・日本には篭城(包囲攻撃が1年以上)はない、小田原城攻めで100日程度、鳥取城で4ヶ月、その理由は日本の城は都市城でないために生活持久力が乏しいから(p213)
・日本の戦国時代に人口が増加して生産が上昇した理由として、技術革新もあるが、大大名内の領国内では本格的平和が保たれていた(p224)
・戦国時代末期においては、大名とその家臣が、農民全員に重武器(弓、鉄砲、鑓)をもたせるほどまでに信用していたことが特筆すべきこと(p229)
・日本には、中国における父系集団である宗族や韓国での本貫に相当するものが無い、血縁ではなくて協働(一緒に働くこと)が共同体を作る(p230)
・成り上がりの北条早雲でさえ彼が連れてきた6人と相模の土豪(松田)で草創の7手家老を作るなど、伝統主義的秩序を作ったが、信長のみが例外である、その理由は、大名→家臣→農民という支配関係を軸とする共同体が形成されてきたから(p245)
・大名のお国替えが日本の幕藩体制下に限って自由に行なえたのは、徳川時代における諸侯が、政府任命にかかる官僚としての性格に転換していたから(p250)
2010/08/16作成