・関東の鎌倉幕府の政権運営を考える時、関西=朝廷といかに距離を取るかが重要となってくる。その視点から読み解くと、頼朝の死や、その後の三代将軍・実朝の暗殺なども一本の筋道が見えてくる(p4)
・鎌倉殿は御家人に対して、1)本領安堵(土地所有を保障する)、2)新恩給与(恩賞を与える)、3)官位推挙(朝廷に官位授与を推薦する)、することで、御家人からの信頼を得る(=御恩)これに対して、御家人は軍役に就くなどして応える(=奉公)である。13人の合議制は、鎌倉殿が行なっていた土地争いの裁定に、直接関与できないようにした、決定は有力御家人の合議で決められた(p16)
・当時の東国の中心となったのは、駿河・伊豆・相模・武蔵の4カ国、三浦氏は坂東八平氏の一つで、相模国三浦荘を本拠とする大きな武士集団である、源頼朝の祖先、義家の頃から源氏に仕える武士であった(p25)
・頼朝の前に政治の実権を握った平清盛が最初の武家政権とされないのは、平氏一門は朝廷内での昇進によって貴族化したから(p34)
・三代将軍、実朝は、のちに暗殺されるが、彼は和歌に優れ京の文化に関心を示し、今日の貴族・坊門家から正室を迎えるなど朝廷とのつながりが深かった(p38)
・保元の乱において、崇徳上皇側についた、源為義・藤原頼長・平忠正の死刑は、平安時代初頭に起きた、薬子の変、以来300年ぶりとなる。この乱で最も多い兵を動員した平清盛でさえ、300騎であった(p47)
・保元の乱ののちに、後白河天皇は守仁親王に譲位して二条天皇に即位させると、自身は上皇として院政を開始した、政治的実権は側近の、信西が握ったが、これに反発する、藤原信頼、源義朝がクーデターを起こしたのが平治の乱である(p50)この乱の後に、信西一族は流刑、義朝は播磨守、息子の頼朝は右兵衛権左(従五位下)に任命された(p54)
・頼朝の助命に大きく関わったのは、平清盛の継母・池禅尼であり、当時の女性の地位は高く、母、乳母の発言力は非常に大きかった(p67)
・後白河上皇を鳥羽殿に幽閉して陰性を停止させた清盛(治承3年の政変)は、軍事クーデターを成功させ、高倉天皇を譲位させて高倉院政を開始、安徳天皇(娘徳子が産んだ皇子)を即位させ、上皇_天皇の外戚の地位を確保し、平氏政権が成立した(p71)
・後白河上皇を幽閉し、政治的実権を握った平清盛と平氏に対抗したのが、後白河上皇の第三皇子・以仁王出会った、以仁王は治承4(1180)年に、諸國の武士たちに清盛・兵士討伐の令旨を発している、これに呼応して平氏に敵対する武士たちが兵を挙げた、頼朝へは叔父の源行家によって令旨がもたらされている、この挙兵に始まる治承・寿永の内覧は、平氏と源氏が雌雄を決する、いわゆる源平合戦のことである(p75)
・頼朝は平氏軍を追って上洛を命じたが、これに反対した武士(三浦、千葉、上総氏など)もいた、上洛するよりも関東を平定し、自分たちの本領安堵を達成することが先決であった(p91)
・関東の武士の自立を成し遂げることが一番の目的だった頼朝は、平氏の追討で降伏こそ引き出しはするけれど、滅ぼすことまでは考えていなかったのかもしれない。和睦案として、安徳天皇の身柄と、三種の神器の返還が落とし所の一つであっただろう。ところが大将を務めた義経が、降伏の隙も与えぬまま、一気に攻め滅ぼしたので、安徳天皇も神器も戻らないまま、海の藻屑へと消えてしまったのである(p100)
・頼朝が義経追討の兵を挙げると、義経は奥州藤原氏へと逃れた、頼朝は北条時政と1000騎もの軍勢を京へ差し向け、頼朝追悼の宣旨の真意を諮問した、これに対して後白河天皇は「あれは一時の迷いであった」と弁明し、今度は義経追討の命令を出している、こうして義経を探索する目的で、頼朝は全国に守護、荘園に地頭を置く許可を取り付けている、鎌倉幕府の基盤となる政治と経済のシステムが確立したこの年、文治元年(1180)を鎌倉幕府の成立としている(p104)これで鎌倉を中心とする武家政権が成立した(p113)
・荘園公領制においては、貴族である国司が国ごとに任命された、国司自身が任地に赴くことは珍しく、京の下級官人を目代として派遣し、現地から税などの上がりを遅らせるようになる、この目代の元で在地領主すなわち武士たちたが在庁官人を務めた、他方、貴族や寺社に寄進することで、土地を安堵する方法が取られたが、寄進された貴族は上司、寄進する在地領主は下司と呼ばれた(p119)
・頼家が病に倒れる中、頼家の後継者について議論された、頼家の弟でこの時10歳の千幡(後の実朝)に関西38カ国、頼家の嫡男6歳の一幡に関東28カ国と惣守護職を与えることに決まった、将軍権力を東西の二つに分割して統治することになった、頼家の後継者問題は、北条氏(時政の娘、政子の妹に当たる阿波の局が乳母:実朝)と、頼家・比企氏(頼家、一幡ともに比企家で育てられた)の争いである(’p164)
・親王将軍の擁立が失敗に終わった後、鎌倉幕府は天皇家に次ぐ権威を持っていた摂関家・九条家から養子を得ることで将軍候補とした、いわゆる摂家将軍体制の始まりである(p188)
・遺産相続となると子供が二人いれば分割してそれぞれに相続、代が変わることに所有する土地が少なくなっていくが、独身の内親王を荘園領主とした場合、土地は大規模なまま維持される、後鳥羽上皇はこうした経済基盤を背景に自身の政治的理念を達成しようとした。鎌倉幕府の台頭によって脅かさせて続けてきた朝廷の復権であった(p192)
・承久の乱の後、後鳥羽上皇は出家し、隠岐へと配流、後鳥羽上皇に賛同していた順徳上皇も佐渡配流、土御門上皇自身の申し出から土佐へ配流、のちに後鳥羽上皇が流された隠岐に少しでも近い、阿波へと移された(p216)その後、後鳥羽上皇の兄、守貞親王の子を、後堀河天皇として即位させた、ここに幕府が天皇の位を決めるという、日本史の大きなターニングポイントが生じた、こうして承久の乱は、朝廷側の敗北に終わり、いわゆる「武士の世」がスタートした(p216)