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「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ 719)

「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ 719)の写真

・武士というものはまだ、朝廷に近づくと独自性を保つことができなくなる、という消極的な理由で、鎌倉が選ばれた。その点を克服したのが足利尊氏で「武家政権はそれなりに力を蓄えたので、朝廷と直接対峙しても負けることはない」ということで、京都へ本拠を移した(p24)

・検非違使の長官は「かみ」次官は「すけ」3番目の「じょう=尉」が「判官」と呼ばれる、さらに次は「主典(さかん)」そして「大夫(たゆう)」義経は「大夫判官」という官職をもらった(p28)

・将軍は本来的には、もともと命懸けの忠誠心を要求できる軍事貴族出身がその座につくもの、ところが武士の中でも底辺の方だった北条が将軍になったら、反発を招くことになっただろう。北条が将軍になれなかったのは、賢い北条氏は自分が将軍になるような愚策は取らなかった、表の顔として毛並みの良い血筋の人をたて、自分はその後ろで汚れ仕事をやり、実権を握っていた(p66)

・建武の新政、1334年を初めてわずか3年で途絶えてのは、武士の力を全く認めなかった、このことに尽きる(p72)

・斯波義将(彼の場合は、はよしゆき)斬波家は足利一門のなでも非常に家格が高く、鎌倉幕府の中でも独立した一つの御家人として位置付けられていた、細川家も足利一門だが、足利本家の家来筋、それと比べると、吉良・畠山・斬波といった名門家は、足利本家と対等に近い独立した御家人という地位にあった(p116)斯波義将に協力した(細川に勝利)のが、山名・大内・岐阜の土岐(p119)

・足利義満は将軍になって、権力を確立するため、有力な守護大名を潰した、1390年土岐、1391年山名、1400年大内、細川家は将軍と一体になって繁栄した(p120)

・応仁の乱では、西軍としては、山名を中心にして「土岐・大内」義満の時代に一度は潰されたが力を取り戻してきた、東軍は「細川グループ」ここから西軍に移籍したのは「一色」くらい(p123)応仁の乱は、視点を変えると「瀬戸内海の覇者は誰だ」という争いでもあった(p125)

・武田信玄は、室町幕府が与えるその国のリーダの資格=守護を手にいれ、さらに朝廷が与える資格である「国司」の官も入手して「信濃守」になった(p176)

・信長は尾張統一(57万石)の後、北伊勢(30万石)を取得し、30代前半で既に150万石もの領土を持っていた、信玄は晩年になってやっと60万石(p178)

・日本はもともと「西高東低」の国であった、文化の先進地域は西の上方で、関東は僻地であった、家康が大工事(利根川の曲げて鹿島灘に注ぐにようにする)を始めるまで、人も住めない土地であった。関東で源頼朝が武家政権を作った、西国で独立政権を作ろうとしても潰しに来ただろう。頼朝は朝廷と折衝を繰り返し、ようやく認められた、朝廷と武士の政権の関係は並び立つ形で終わった(p204)

・京極高次の家は、鎌倉時代から続いてきた佐々木家が元になっており「近江と言えば佐々木」と天下に聞こえる大変な名家であった、それが室町時代に2つに別れて、六角と京極になったが、高次の時には、落ちぶれていた(p253)