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逆説の日本史16 江戸名君編 水戸黄門と朱子学の謎 (逆説の日本史)

逆説の日本史16 江戸名君編 水戸黄門と朱子学の謎 (逆説の日本史)の写真

・最年長の子であっても側室の出生であり、家督を継ぐ資格は無い者とされることがある、光圀は家臣の子として育てられたのでその種の届出はされておらず、嫡子として認められた(p9)

・光圀が名自他「大日本史」が完成したのは、明治末の1906年(明治39)である(p25)
・幕府が光圀で果たそうとした「天皇家の血の導入」は、慶喜(彼の母:水戸藩9代藩主の妻は有栖川宮家の吉子)で完成した(p28)

・宗教にせよイデオロギーにせよ、分裂して分派が出来るのは、それまでの主流が「ニセモノ」とされる時、カトリックからのプロテスタント、スンニ派からのシーア派等(p44)
・家康が考え出した朱子学の導入は、幕府を安泰にするために普及させようとした思想であったが、幕末には倒幕の原理に化けてしまった(p51)

・保科正之の三大美事は、末期養子の解禁・殉死の禁止・人質制度の一部緩和(大名の重臣の人質は免除、大名の正室と嫡男は江戸在住)である(p83)
・日本の廃仏毀釈は、政府の神仏分離令(1868年3月)によって起こったが、それが直に広がったのは、それ以前にそれを「正義」とする根強い信仰があったため、これを正之は会津藩内で先駆けて実施している(p90、92)

・徳川家は浄土宗であったが、天下を取ってからは天台宗にも帰依した、京都の鬼門(東北)を守るのが比叡山延暦寺、江戸の鬼門を守るのが東の比叡山、東叡山寛永寺、ともに年号を寺号にしている格式高い寺(p103)
・上杉家は強引な形(末期養子を認める)で存続できたが、その返りとして、石高を30→15万石とされることになった(p119)

・江戸時代に幕府の役人を接待したのは、公共工事を押し付けないように懇願するため、公共工事は命ぜられた藩の持ち出しである、交際費を削った米沢藩は上野寛永寺の修理(5.7万両:100億円近く)を命ぜられた(p136)
・貴族、僧侶、武士といったエリートに対する教育機関は多くあるが、庶民を対象にした学校(閑谷:じずたに学校)は、岡山藩に確かに存在した(p182)

・キリシタン一揆ともいえる島原の乱(1637=寛永14)後に、幕府はキリスト教、宗教全体に対する警戒をするために、寺請制度(国民はどこかの寺の檀家である必要あり、改宗禁止)が始まった(p193)
・韓国では、同姓は娶らずというルール(儒教の絶対的ルール)があり、厳格に守られている(p200)

・江戸時代のように、江戸城内や大奥でエリートが楽しんだ文化が「大衆化」されて広まった事例は稀である、庶民の知的レベルが高かった、幕府が文化を否定するという方針もそれに起因する(p257)
・日本は万葉時代から、「歌の前での平等」があった、万葉集は天皇、貴族と庶民が同じ土俵で和歌という「文芸作品」を作るという、世界で類を見ない歌集である(p258)

・忍者には2種類(隠忍、陽忍)ある、隠忍は映画等で有名であるが、陽忍とは、本名でしかも敵から望まれる形(芸能人、学者、技術者等)で敵地に潜入し、長期間の工作を行うものである(p293)

・江戸が長らく首都になりえなかった理由として、1)有史以来、文化・政治の中心は西であったこと、に加えて、2)平地のところどころにある小山が障壁となっていたため、これを天下の大名を動員して、山を削り海を埋め立てた、神田山は神田台となった(p295)

・江戸時代の人間は、「武蔵守」と聞くだけで、徳川将軍を連想できた、これは「仮名手本忠臣蔵」の成立事情を分析するためのキーポイント(p316)
・日本には発音をそのまま表す表音文字があり、庶民が簡単に覚えられるものがあったので識字率が上がった、日本では庶民が上流階級と共有して平家物語を音曲により楽しめた(p388)