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世界史のなかの満洲帝国と日本 (WAC BUNKO)

世界史のなかの満洲帝国と日本 (WAC BUNKO)の写真

・歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない(p4)

・かつての満州帝国の領土は、いまの中華人民共和国の東北三省(遼寧、吉林、黒龍江省)に、内蒙古自治区の東部と河北省の東北部を加えた部分にある(p24)

・東夷西戎南蛮北狄において、夷は低と同音で低地人で農耕と漁労を生業とした人、戎は草原の遊牧民、狄は行商人、蛮は焼畑農耕民の意味である(p36)

・中国の都市は、すべて城壁で囲まれているが、いかなる種族の出身者でも、都市に住み着いて市民の戸籍に名を登録して、市民の義務である、夫役と兵役に服せば中国人とみなされた、つまり、役人と兵士と商工業者が中国人(p38)

・始皇帝が初めての肯定であり、厳密に言えば、歴史は2200年あまり(p52)

・倭国は、663年に白村江で全滅した後に、それまで交易に便利な港の近くにあった難波京から、安全な内陸の近江に都を移して、668年に中大兄皇子が天智天皇として大津で即位した(p61)

・天智天皇の即位(668年)に際して、国号を「日本」とさだめて天皇号を作り出した(p64)

・遊牧民の相続は原則的に均分相続で、年長の息子から順番に結婚して、財産となる家畜を親から分けてもらい独立する、末子が両親と同居してその面倒を見て親の死後に財産を引き継いだ(p79)

・元朝の歴代皇帝にとって、本拠地はあくまでもモンゴル高原で、北京に新たに建設した大都は、冬の避寒キャンプ地にすぎなかった、大都は補給基地で漢人を統治する行政センターであった(p80)

・フビライは文永・弘安の役後も日本征討をあきらめずに何度も日本遠征軍を編成したが、そのたびに元朝の南部や北部で反乱が起きて実行できなかった、元・高麗連合軍で完全鎮圧されたのは、1292年でありフビライは日本遠征の命令をしたが、1294年に病死したため取りやめになった(p87)

・高麗は、朝鮮と和寧の2つの候補を準備して、洪武帝に選んでもらった、朝鮮は前漢の武帝にほろぼされた王国の名前(p88)

・アヘンは17世紀オランダ支配下のジャワ島から台湾に伝わり、マラリアの特効薬としてタバコに混ぜて吸飲した、1729年にアヘン禁止令を出したときにはポルトガル商人、18世紀末にはイギリスの東インド会社が取り扱った、中毒者は40万人(p117)

・1839年に着任した林則徐は、広州商人から2万箱のアヘンを没収して、20日余りかけて塩水・石灰と混ぜて焼却、それに対して1840年にアモイを攻撃したのがアヘン戦争(p118)

・1875年に、日本とロシアは樺太千島交換条約を結んで、樺太に対する権利をロシアへ譲渡する代わりに、全千島列島が日本領となった(p126)

・1871年に結ばれた平等条約である「日清修好条規」は、7世紀(668年)以来、天皇と中国皇帝の間に正式に結ばれた条約(p133)

・三国干渉によって日本が遼東半島を返還した後に、ロシアは東清鉄道敷設権を獲得、旅順・大連、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛・九龍半島、フランスは広州湾を租借した(p138)

・日露戦争開戦時の日本側の陸軍は、ロシア陸軍総兵力の約9%(p151)

・日露戦争における日本の勝利がきまった1905年9月に、中国で1000年以上続いた科挙の試験が廃止、1906年には立憲政治の準備の詔勅が出された(p175)

・1934年に満州帝国が成立したあとの9ガウt、ローマ法王庁が商人した後、イタリア、スペイン、ドイツが承認して最終的には15,事実上承認が23カ国であった(p223)

・60万人の勾留者のうち、約1割にあたる6万人が、極端に悪い食糧事情のなかで重労働によって亡くなった(p264)

・終戦当時、満州在住の日本人人口は軍人を除いて、約155万人、そのうち死亡者は17.6万人、在留邦人の65%にあたる101万人が1946年10月末までに民間の力によって内地へ引き上げた(p267)

2011/1/10作成