・後白河法皇の第二皇子である以仁王は、平氏打倒ののろしを上げて5年にわたる戦い(1180年~:治承・寿永の乱)により平氏に打たれてしまうが、その後、源頼朝も兵をあげた(p90)
・征夷大将軍とは、もともと東国の蝦夷を征伐する将軍のことで、征討にさいして現地軍の最高司令官として、天皇の命令を仰がずに行動することが許されていて、近衛大将(武官の最高職)よりも朝廷からの独立性が高かった(p102)
・東国武士たちは、自分たちの所領を保証してくれる後ろ盾として、頼朝を「源氏の正統」のブランドのもとに参集したが、権利取得後は独裁者は不要であった(p106)
・鎌倉幕府を開いた源氏による将軍は3代で途絶えたが、その後、藤原摂関家出身の摂家将軍が4-5代、後嵯峨天皇の血をひく宮将軍が6-9代目(鎌倉幕府滅亡)まで続いた、北条氏の得宗体制は時政から守時まで16代続いた(p109)
・後鳥羽上皇が1221年に、執権:北条義時(2代目)を追討する院宣を出して倒幕の兵をあげたのが、承久の乱である、この時は19万の幕府軍(西軍)の勝利(p110)
・足利義満は特定の守護の力が増大しないように統制し、3管領(斯波、細川、畠山:足利一門)と、4職:侍所の長官である所司(山名、赤松、京極、一色)から任命した、更に、鎌倉府と3探題(奥州、羽州、九州)を置いた(p134)
・応仁・文明の乱は1467年に、次期将軍の争いに、畠山氏と斯波氏の跡目争い、細川氏と山名氏の幕府内での主導権争いから発生したが、正面衝突がないまま11年も過ぎて、1477年に西軍が和議を申し入れて終結した(p150)
・室町時代、関東地方を治めていたのは鎌倉府という役所で、そのトップが鎌倉公方、補佐役が関東管領であった、関東管領・上杉氏は、山内上杉氏と扇谷上杉氏に、鎌倉公方も古河公方と堀越公方にわかれていた(p164)
・加賀の一向宗は、1488年の加賀一向一揆により守護大名の冨樫氏を追い込んで、1580年まで自治体制を続けた(p176)
・足軽には合戦後の恩賞が約束されていなかったため、彼らは戦場近くの村々で貨幣や家財道具を奪った、彼らの持つ長柄は7メートル(通常:2メートル)もあった(p180)
・徳川家康は1617年に正一位へ昇進しているが、豊臣秀吉(1915)、織田信長(1917、死後に従一位へ昇進)、毛利元就(1908)は後になってから(p187)
・1石=1000合=1両とすると、現在価値では1両=20万円=4000文、江戸幕府の直轄地(400万石)の年収は、8000億円(p222)
・鎖国へ向けて、1612:直轄領でのキリスト禁教に始まり、1616:長崎と平戸に制限、イギリス、スペイン、ポルトガル人の入港禁止(1639)により完成させた(p229)
・生類憐みの令の前は、当時の人々は、病人や子供を平気で捨てていた時代であった、その令により、殺生や死を嫌う思想は確実に庶民の間に浸透した(p236)
・5街道(東海道、中山道、奥州街道:白川まで、日光街道:日本橋から宇都宮経由で日光へ、甲州街道)のうち、甲州街道の起点は江戸城で、将軍たちの避難路としての役割もあった(p246)
・大塩平八郎の乱は1837年に半日で鎮圧されたが、鴻池や三井の豪商の家に放火しながら進軍したので、大坂の町の5分の1を焼いた(p258)
・鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍が立て直しをしようとしたが、淀城主の稲葉氏が寝返り、津藩の藤堂氏も寝返ったので、幕府軍は壊滅、その後、中立を保った西国諸藩も新政府側へついた(p276)
・1871年に琉球王国が鹿児島県に編入されたが、1872年に琉球藩設置、1879年に沖縄県が設置された(p285)
・明治6年の突然の改暦(天保→グレゴリオ)は、閏月のある年でもあり決断され、明治5年12月3日が明治6年1月1日となった(p291)
・江戸時代に宣明暦(中国)→貞享→宝暦→寛政→天保(いずれも日本)と変わった(p291)