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関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか (PHP新書)

関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたか (PHP新書)の写真

・合戦が起きた旧暦9月15日は新暦換算で10月21日、合戦をしかけた人物を理解するには、1)豊臣から徳川政権にいたるまでの経済の在り方、2)主要人物の立場を知ること、がポイント(p17)

・秀吉のとった重要な政策として、1)検地、2)刀狩、3)海賊取締り令、があるが、前者2つは、荘園制のもとで活躍した、地主・荘官などの小領主、そしてその下の地侍層を否定するもの(p35)

・家康は藤原惺窩の弟子である林羅山を御用学者にして、日本化した朱子学を幕府の官学とした(p100)

・光秀と深い関わりのもつ人物として、小早川秀秋の筆頭家老である、稲葉正成と、大名:脇坂安治である、脇坂は光秀の近臣で後に秀吉に仕えた。朽木と小川も光秀の部下(p110)

・慶長の役で総大将の小早川秀秋は、稲葉正成のすすめで加藤・浅野軍を助けたが、これを石田三成は勝手にプサンを離れたことを責めた結果、領地を削られて12万石になったので石田三成に恨みを持った(p129)

・吉川広家も、蔚山の戦いで手柄を立てたが、恵瓊が抜け駆けしたとして、非難して三成が同調した。これに毛利家が同調したので、毛利家と吉川家は疎遠になった、このときに取り成したのは家康(p135)

・小早川秀秋の裏切り直後に、東軍に走って、西軍の平塚為広らの部隊を壊滅させた、脇坂は、西軍崩壊のきっかけをつくった(p136)

・家康が合戦まで、加増に用いた領地はいずれも、豊臣家の直轄領、秀吉が晩年に行った露骨な拡大策に反発するものが多かったので、これを受け入れる者も多かった。特に中小大名は期待の目を持った(p149)

・家康は農村にまで都市の豊かな暮らしを広めていくために、租税を七公三民から、四公六民にした。さらに村三役(庄屋、組頭、百姓代)からなる村役人の手による農村自治を重んじた(p194)

・関ヶ原の合戦は、1)上杉景勝、2)毛利輝元、の二つの反徳川の行動によって起きた(p198)