・今川義元は上洛は考えていない、京に向かうためには近江、伊勢を通らなければならないが、そのあたりの大名に根回しした形跡がまるでない、美濃国を得た信長が南近江の六角を討ち、北近江の浅井と同盟したようなことが必要(p15)
・近代戦なら戦闘中に総司令官が戦死してもシステム化された軍は動けるが、戦国時代の総大将はオーナーなので、取られたら負け(p20)
・浅井長政は、3代将軍家光の外祖父なので、不名誉なことは書けない。姉川の戦いは長政の責任以外で負けたことにする必要があった(p23)
・軍の移動の速さを決めるポイントが「足軽の足」であることを秀吉ほど経験的に知っていた大将はいない、秀吉は足軽出身の唯一の大将(p30)
・柴田勝家が秀吉にやられた(中国大返し)のは、常識的な計算が通用しないほどの速さで秀吉が戻ってきたから、これは佐久間盛政も感じただろう(p34)
・佐久間盛政が突出したのは、盛政軍と本軍の勝家を繋ぐ位置にいた、前田利家が勝手に離脱したために、突出した形になった、そこに撃破されてやられた(p35)
・関ヶ原の戦いにおいて、徳川が島津に手が出せなかったのは、義弘以下の関ヶ原の奮戦つまり「退き口」が無事成功したから、兵員90%を戦死させても大将を維持できれば負けではないから。(p42)
・如水の野心を空振りにして、関ヶ原の戦いを1日で終わらせたのは、浅井長政が、本来、西軍につくべき福島正則を東軍にしたから(p49)
・もし騎馬軍団が大名軍団の中核部隊として運用され続けていたら、日本国中の大名が棒道(舗装された道)にしていたかもしれない、そうならなかったのは鉄砲隊(足軽)が中核となったから(p73)
・元は、日本において世界を席巻した騎馬軍団を全く使えなかった、一方、鎌倉武士は騎兵であり、このため辛うじて勝てた、日本の軍団は騎兵と歩兵の混成部隊で騎兵割合は上級武士のみであり1-2割程度(p78)
・信長は、最大のネックである人件費を、楽市楽座による商売・交易推進策で稼ぎ出した、他の大名は、領内の農民をタダで徴兵した(p89)
・信長が比叡山焼き討ちを行ったのは、従来の利権を守ろうとした寺社勢力が、「信長潰し」に回り、それを信長が逆につぶしたのが本当のところ(p90)
・信長以前の旧タイプの大物大名、武田信玄・上杉謙信・北条氏康・今川義元・毛利元就の全員に共通する持ち物は、金山・銀山である(p90)
・毛利元就が大内を倒すことで得た財源は、中国との貿易ルート、大内氏は「日本国王」と名乗って、明と貿易していた、また世界最大量の銀を産出していた石見銀山を得たのも大きかった(p92)
・楽市=フリーマーケット、楽座=モノの生産に対する許認可権の廃止(それまでは「座」というカルテル)、関所の撤廃=高速道路の無料化であった(p96)
・信長はなぜ本能寺が包囲するまで気が付かなかったかは、関所を全廃していたから、関所のもつ本来の監視機能もなくしていた、徳川家康はこれに学び、箱根に国境検問所として関所を築いたが、関銭は一切取らなかった(p98)
・道路財源の特定化は、2009まで運用されていた(p100)
・加藤清正が熊本で築いた堤防は、コンクリート製が水害で壊されたのを尻目に、いまでも機能しているものがある(p105)
・平安時代後期になると、紛争の解決手段としての戦争を一切放棄した、平和とは神聖であり、天皇も公家も武力を持つことをやめた(p110)
・室町時代は京の室町に本拠をおいたため、関東統治のために関東総督、副総督(関東公方・関東管領)であった(p119)
・信長の三男、信孝は神戸信孝と名乗っていたが、四国遠征が成功すれば、阿波国の名門三好氏の養子になることが決まっていた(p129)
・会津藩は京都守護職を押し付けられたが、本来は京都所司代がやるべき仕事であったが(p154)
・王政復古がなぜ維新になりえるかといえば、古代の日本には天皇が頂点にあるだけで、関白も大名も将軍もなく、一度日本の身分をリセットしたから(p160)
・イギリスは、4か国戦争の講和にて、関門海峡の入口にある彦島を租借しよう(香港のように)としたが、高杉晋作が断固断ったこと(p167)