・無位無官の大名ですらない者(島津久光)が大軍を率いて江戸に向かうことは、幕府始まって以来の前代未聞の事態(p44)
・生麦事件において、島津久光一行の行列と言われるが、久光は無位無官で薩摩藩主ではないので大名行列ではない。(p71)
・文久3年(1863)四月には、長州藩は山口に城を移動している、城と呼ばずに「山口政事堂」と称した(p83)
・日本書紀は壬申の乱という大戦争の後に、勝者の天武天皇が息子の舎人親王を責任者として編纂させた史書、関係者が死に絶えた後に書かれた「扶桑略記」には全然別の真相が記してある(p125)
・太平洋戦争直前にあった「空気」を定義すると、「理性的・論理的見解をまるで受け付けない集団ヒステリー状態」である、江戸末期もこの「空気」を読めない人は必ず殺された(p139)
・幕末期の旗本とは、本来の兵士ではなく、刀を差した事務官僚である。なので、新撰組の基になる浪士組も結成された(p159)
・旗本が、幕府が新たに武士以外から歩兵を選ぶという歩兵創設に反対しなかった本当の理由は、「鉄砲などは足軽の持つもの」という江戸時代の武士の考えによる(p209)
・太平洋戦争直前の陸軍の武器は日清戦争から殆ど進歩していなかった、それに比べて海軍は世界一の武器を開発、機動部隊は世界中でアメリカと日本のみで英国海軍も持っていなかった(p227)
・東京電力が原発事故が起こった時、復旧作業にあたるロボットの導入を見送り、アメリカ製のロボットが使われたのは、ある新聞社が「事故の可能性を認めるのか」と迫ったため(p231)
・天才家康の構築した日本防衛システムは、蒸気機関の出現という技術革新の前に崩れ去った(p239)
・万延から文久に、文久から元治に元号が変わったのは、古来からの習慣に基づくもの、辛酉(かのととり:1861)と、その3年後の甲子(きのえね:1864)は王朝交代の起きやすい年と言われていきたので(p271)
・長州の乱、ではなく「禁門の変」という呼び方になるのは、長州が最終的勝者になったため、御所に鉄砲を射ちかけた長州藩は本来は朝敵、それを守った会津藩や一橋慶喜は忠臣であるはず(p352)
・薩摩藩の伝統的戦法は、関ヶ原での敵中突破でも使われたが、腕の良い狙撃手が敵の大将クラスを狙い撃ちにして、敵を動揺させて一気に討つというもの(p353)
・長州(関門海峡)へ向かった4か国連合艦隊は、17隻の軍艦で構成され、英9仏3蘭4米1であり、総司令官はイギリス海軍のキューパー提督、旗艦はユーリアラス号であった(p370)
・講和会議において、高杉はキューパー提督以下に、彦島租借の件を断念させた、4か国連合は各国が牽制し合った結果、領土要求に拘らなかったことも幸いした(p375)
・領土要求はしなかったが、賠償金として生麦事件(10万ポンド:40万ドル)よりもはるかに多い300万ドルを要求した、明治政府まで引き継がれ明治7年に完済した(p377,386)
・第一次長州征伐の大将には御三家尾張藩の徳川慶勝が選ばれたが、参謀には西郷隆盛が選ばれた、外様大名の当主ですらない彼が官軍の頭脳となった(p380)
・明治維新は、敵に学んで国家をリニューアルしようとしたが、その達成に20年かかった、当初はその正しい道を主張した人が極悪人として尊王攘夷派に殺されたから、これが起きるのは朱子学のため(あとがき)