・家康は1583年に甲府城の建造にとりかかり、ほぼ完成させていた1590年に江戸行きを命じられた。当時の甲府は、西日本と東日本、そして東海の静岡との重要な結節点であり重要な土地であった(p23)
・関東は二つの流域で構成されている、鬼怒川・霞ヶ浦流域と、利根川・荒川流域である、これらを分けているのが、松戸・柏・流山・野田市と続く千葉と埼玉の県境にある下総台地である(p27)
・以前の江戸が人のまばらな寒村であったのは、東北日本と西日本を結ぶ二つのルート(北関東の陸路、西に向かう海路)から外れていたため(p28)
・京を守護する比叡山(鬼門である逢坂)の僧兵は、朝廷の親衛隊であった。信長た味わった恐怖は、今川義元に桶狭間で味わせた死の恐怖であった、それを抹殺したので、天皇の権威と武士の政治権力と宗教のすみわけが確立した(p55、56)
・源頼朝が流された伊豆の島は「蛭ヶ小島」という地名であり、場所は伊豆半島の中央である(p61)
・穏やかに見える遠浅の浜は、事実上、鉄壁の要塞である。由比ヶ浜の遠浅が鎌倉を難攻不落にした(p66)
・頼朝が鎌倉に幕府を開こうとしたときの京都は、劣悪な衛生状態であった。方丈記においても20万程度の都市で4万人の疫病による死者が出ている(p74)
・日本人は牛や馬に名前を与え、家族同様に扱ったので、ローマや中国のように去勢をしなかった。なので牛車も暴走することが多い(p83)
・モンゴル軍の強みは、騎馬軍団と牛車群であったが、日本ではそれを活用できなかった、また乾燥したユーラシア大陸にはいない「やぶ蚊」には耐えられず、船上で寝泊まりした(p88)
・東海道の宿場図において、宮から桑名まで海上ルートを通った理由は、泥の濃尾平野を越えられなかったからだろう(p92)
・江戸幕府が赤穂浪士の麹町潜伏を見逃していたのは、幕府自身が赤穂浪士を匿ったということになる(p137)
・吉良家は、源氏の名門であった足利尊氏が三河の守護になり吉良庄の地頭職を兼務した時以来、矢作川下流部を支配していた、吉良家から分家した今川氏は三河地方に勢力を広げた(p156)
・江戸市内には町境の要所ごとに木戸があり、夜は閉じられた。特に重要な木戸は、東海道の高輪、甲州街道の四谷、中山道の板橋であった(p168)
・奈良は、奈良時代の人口に回復したのは、1970年頃、1200年以上かかっている(p306)
・福岡は、ユーラシア大陸を横断し朝鮮半島から日本列島にたどりつく世界文明の大交流軸の上に位置していた(p355)
・日本文明の自壊の可能性は二度あったが、二度とも遷都によって危機を脱出した、一度目は、794年の桓武天皇による京都への遷都、二度目は1603年の、徳川家康による江戸幕府の開府である(p361)
・徳川家康は関西の山地荒廃を目の当たりにしていたので、利根川の江戸を選択した(p374)