・インフラ(機能:安全、食糧、資源エネルギー、交流)に支えられている上部構造では、産業・経済・政治・学問・芸術・スポーツなど様々な活動が繰り広げられている。インフラの1つのピースが崩れただけで、下部構造全体の組み合わせが壊れ、人間活動全体も崩壊していく(p5)
・奈良盆地は、1)安全、2)木材エネルギー資源、3)水資源潤沢、4)水運があり、文明が誕生するために必要なインフラが全て揃っていた、それは全て自然が与えてくれたインフラであり、奈良盆地は天の恵みにあふれていた(p18)
・奈良時代には、紀伊半島は琵琶湖北岸まで森林伐採が行われていた、奈良盆地周辺では木材が確保できなかった、つまり奈良盆地周辺の木々は伐採され尽くされて、山々は禿山になっていた(p29)
・巨椋池近くの長岡京がいかに洪水に弱いかは一目瞭然である、長岡京へ遷都して以降、長岡京は何度も洪水に襲われた、そのため桓武天皇はたった10年で長岡京から再び遷都しなければならなかった、行き先は長岡京から30メートルも高い京都であった、地形と気象とインフラから見れば「桓武天皇は3河川が集中する地形の凄まじさを白なった」ただそれだけであるあ(p32)
・地形で分断されている人々は、情報を共有しない、言語を変え、文字を変え、風習を変えていく。ところが地形で分断された日本列島の人々は、京都で出会い、同じ言語で会話し、情報を共有していった。共同体とは情報を共有する人々である、京都で出会った日本人は、情報を共有し日本列島に住む共同体として帰属意識を育んでいた(p38)世界史で生き残った文明は5つある、西洋文明・イスラム文明・中国文明・インド文明、そして日本文明である(p40)
・日本の天皇制の特長の1つが、権力から距離をおき権威の座についたことである。権威と権力の分離は、源頼朝が鎌倉幕府を開府して以降と言って良い、それは、室町・安土桃山・江戸時代と、約700年間に渡って社会の運営権、つまり権力は武士が担った。武士同士の権力闘争は激しく繰り返されたが、権力から離れていた権威は基本的には揺るがなかった(p43)
・世界遺産を見ると、地球から与えられた大自然か、当時の権力者の遺跡がほとんどである、しかし、この熊野古道は、性別・後檣の分け隔てのない人々の命と健康のための世界遺産である。(p48)
・平清盛の建設した福原京は、流人が入らない都、清潔で魚介類が豊富な都、海を制覇できる都であった(p51)
・源頼朝は、平家の残党を恐れたのではない、流人を恐れた。流人が溢れ、スラム化する都市を恐れた。その流入を防ぐため鉄壁の鎌倉が必要であった(p58)頼朝の選んだ鎌倉は、東日本へいくカナメの土地であった、平清盛の神戸・福原今日が西日本への要の土地であったことと酷似していた(p59)
・歴史は地形と気象の舞台の上で演じられる、この舞台を忘れ、舞台上で踊る人間模様に目を奪われていると、歴史の本質は見えなくなる。ただし、地形を考えるときに大切なことは、21世紀現在の地形ではない、歴史が繰り広げられていた当時の地形が大切である。日本史上、日本列島で最も劇的に変化した地形は関東平野である。関東の大改編は、1590年以降の徳川家康と徳川幕府が行った。関東の歴史は、その大改編される以前の地形に戻らなければならない(p59)
・牛馬を家族にした日本人の心が、日本は車文明を進化させなかった原因であった、日本では牛等を去勢しなかった(p67)
・モンゴル軍が日本に侵攻したとき、日本の海岸線には、ぬかるんだ「泥の土地」が広がっていた、泥地の奥の陸地には、鬱蒼とした常緑樹が茂る山々が展開していた(p70)
・朝鮮半島、対馬列島の海の民は、モンゴル軍に悲惨な蹂躙を受けていたので、海の民たちは、密かにモンゴル軍への復讐を狙っていた。日本海戦の文永の役で、海の民たちは、わざと湿地が展開する福岡へモンゴル軍を導いた、二度目の弘安の役に際しても、福岡沿岸では元寇土塁が築き上げられていたにもかかわらず、福岡へモンゴル軍を導いた、それが日本の元寇の戦いであった(p74)
・戦後の世を制するには、京に上洛し朝廷を迎えなければならない、上洛するには、この狭い逢坂の峠を通らなければならない、その逢坂峠では、比叡山の僧兵が山猿のように、俊敏にとび、駆け巡り、侵入者を手ぐすね引いて待ち構えていた(p88)信長が比叡山焼き討ちをしたのは、京への入り口の逢坂峠を自由に行き来することが目的であった(p91)
・本願寺のあった上町台地に攻め入るには、台地の南の天王寺口しかない、防御する側は、その尾根の入り口をしっかりと固めさえすれば良かったので、本願寺一党は信長に負けなかった、それは上町台地の地形が信長に負けなかった(p94)
・西国から東北へ行くどのルートも江戸を通らない(徳川家康が秀吉に関東への移動を命令された当時)江戸は日本列島の東西の主要ルートから外れ、ポツンと孤立していた、江戸は情報の軸から外れた孤立した土地であった。秀吉は家康を不毛の関東へ追いやり、街道の軸から外れ、情報から孤立した地形の江戸へ追いやった、家康を幽閉した(p99)
・房総半島に上陸し、陸路を北に向かうルートに「国府台」があった、ここを過ぎると関宿になり、関東地方で唯一、陸路で東北へ進軍することができた。国府台は関東の地形上の急所であった。関東で最も古い由緒ある土地である、645年の奈良時代に、関東支配のために国府が置かれた、これは「こうのだい」と呼ばれる。日本武尊がコウノトリに道案内をされたという神話があった。1192年源頼朝は、決起する拠点とした、1564年、1564年には、北条氏と里見氏は国府台合戦が展開された、1868年には、戊辰戦争にて旧幕府軍は江戸奪還のためにこの国府台で構えた、昭和以降も、国府台は帝都・東京防衛のため陸軍砲兵隊の駐屯地にもなった(p110)
・明治から昭和にかけて、日本列島全体が禿山であった、神聖な比叡山も禿山になっていた、関ヶ原も禿山だったので高台に行けば全てが見通せた(p124)
・家康は1590年に江戸に入って以降、関東一帯を見て歩き回っていた、この調査は、後年の検地・知行割・町割などの政策でいかされた、そしてこの調査で2つの宝物を探し当てた、1)目に染みるような利根川の森林、2)大湿地の関東平野を日本最大の穀倉地帯に展開させる鍵となる地形の発見であった(p130)関宿の台地を削れば、利根川の流れは江戸湾に向かわず、東の銚子に向かう、利根川の洪水が江戸湾に来なければ江戸城の前に展開する干潟を埋め立てて干拓地にして、穀倉地帯にできる。他の大名の領地を武力で奪わなくても、莫大な財産が手に入ることに気付いた(p132)
・現在の地形図の海面を5メートル上げた関東の地形図によると、関宿で利根川と渡良瀬川をブロックしている下総台地の地形の存在がわかる、これは縄文前期の関東地形を表している(p136)
・東日本大震災時において、仙台の下水道システムが生き続けたのは、一切、ポンプが使用されていなかった、自然の重力だけで仙台市の汚水は流下していたので、電気が止まっても家庭やビルからの汚水は市内で滞留しなかった(p153)
・西日本から東へ行く陸路には3本のルートがある、北陸道、東山道(のちの中山道)、東海道である。このうち、北陸道と東山道は3ー4ヶ月間雪に閉じ込められてしまう。従って、東海道が東西日本を統一する街道であった、その東海道の中央に位置するのが駿府であった。この駿府は、防御と攻撃で第一級の地形を保有していた(p163)駿府の前面の砂浜は、鉄壁の守り、三保の港は最強の攻撃拠点であった(p167)
・江戸時代、全国の沖積平野で堤防が築かれ(徳島県の那珂川など)何条にも暴れる河川を堤防の中に押し込んでいく作業が行われた、この流域開発によって日本の耕地は、平安時代から鎌倉、室町、戦国にかけて90万町歩で推移していたが、江戸時代には一気に300万町歩までに増加した、各地の米の生産高は上昇し、それに従って日本の人口は、1千万人から、三千万人に増加した(p171)
・1657年明暦の大火以降、隅田川の東岸を江戸市内に取り込んだからには(隅田川に橋をかけて武蔵国と下総国の両国を結ぶ橋)、もう隅田川の東側で洪水を溢れさせるわけにはいかず、他のどこかで水を溢れさせる必要があった、日本堤と一連の黒田堤で囲む一帯で隅田川を溢れさせることにし、江戸に洪水を到達させないようにした(p178)
・中国人や韓国人と異なる日本人の性行とは、日本人はなんでも「縮めて」しまうこと(p197)細工しないものは「不細工」と非難し、詰め込まない人は「詰まらない奴」と侮蔑された(p204)
・日本史が大きく転換する時には、いつも森林喪失という事態が大きく関わっていた、8世紀末、奈良盆地は森林を失ったため、桓武天皇は平城京から淀川流域の平安京へ遷都した、17世紀初頭、西日本一帯の森林は消滅していたため、徳川家康は関西を背にして広大な森林を持つ利根川の江戸に幕府を開いた、日本文明は森林消失の危機を、都を移すことで凌いでいた。江戸末期、日本列島全体の森林が荒廃してしまったので、日本文明は都を移す得意技を封じ込めれて、絶体絶命の崖っぷちに立たされた。(p214)黒船の西洋文明は、日本に化石エネルギーを運んできた、森林を焼失していた日本にとって、黒船はエネルギーの救いの神となった(p215)
・険しい地形と湿地帯のため、日本人は車を進化させなかった、日本人の旅はいつも歩きであった。船旅もあったが、それは金持ちの例外的な旅であった(p224)日本人の誰もが荷物を担ぎ歩いていたので、日本人の価値観は「モノを小さく軽くする」ことであった、モノを小さく軽くすることは、モノを担ぐ自分自身の命を救うことであった(p224)