・社会の下部構造とは、単なる土木建造物ではなく、安全・食糧・エネルギー・交流という4個の機能で構成される、その上部構造に文化があり、上部・下部構造をあわせて文明がある(p6)
・1854.3に日米和親条約を交わしてから、安政伊賀・安政東海・安政江戸の3大地震がおき、欧米人を恐怖のどん底に落とした(p32)
・下関戦争において、長州軍の本隊は、蛤御門の変で京都に釘付け、非正規軍の奇兵隊を中心に、4カ国連合軍と戦った(p35)
・日本列島の70%の山と、10%の湿地帯が、欧米列国が得意な騎馬軍団の登場を許さなかった(p39)
・蒸気機関車は、旧大名たちの邸を迂回して、海を走るしかなかった(p50)
・日本で平野といえば、縄文時代には海だった場所、それが沖積平野となった(p52)
・大名の領地はうまく河川流域で分けられていたので、領地を開発しても隣国と衝突することはなかった、これが安定した地方権力となった(p54)
・蒸気機関車を見た人は驚いた、東京と横浜をたった1時間で結んだ、それまで地域を分ける多摩川、鶴見川を1分もかからずに越えた、河川の境界としての機能を消し去った(p57)
・大正10(水道の塩素殺菌)年に年間33万人に増加した乳児の死亡数は、一転して減少して今に至る・それと平均寿命の延びは一致、水道は明治20年から開始(p65、67)
・水道の塩素殺菌には液体塩素が必要だが、その技術は日本陸軍からの要請で大正7年に開発、シベリア出兵が終わったのでその製造プラントは無駄になった、それを細菌学の権威である後藤新平がその技術を転用できた(p71、77)
・鷹狩りは自軍の威容を見せつける目的も兼ねていたが、他陣営も文句を言えず、また面子も保てた、1590年以降の家康の鷹狩りは、地形調査も兼ねている(p82)
・銚子沖で激しく流れる黒潮を横断するのはきわめて危険、房総半島で船を下りて陸路で東北に向かう、家康は関宿という関東の弱点を発見してそれの対応をした、さらに利根川の東遷が日本一の関東平野を誕生させた(p89、90、93)
・世界に不思議がられている日本人の単身赴任は、近代化の中で誕生したものではなく、400年もの年季の入った日本人の生活習慣(p100)
・江戸の大名は純粋な消費者であったので、経費を捻出するために、自藩の農産物・海産物をもってきて貨幣に変えた、東京で消費生活をする学生とその親は現代版の参勤交代(p102,106)
・徳川幕府の天領だった主な流域として、雄物川・利根川・天竜川・木曽川・紀ノ川・吉野川・筑後川流域がある(p123)
・日本文明はエネルギー観点から絶体絶命であったが、これを救ったのが黒船文明であった(p128)
・日本史が大きく転換するときは、いつも森林消滅という事態がある、8世紀末の奈良盆地の森林消滅による京都への遷都、17世紀の西日本一帯の森林消失による江戸幕府(p138)
・新たに指定された、開港した場所(函館・横浜・神戸・長崎)に共通しているのは、大きな川がない、なので港が土砂で埋まらない(p146)
・開国当事、横浜が100軒程度の寒村であった理由は、水がなかったから、川崎村のニケ領用水から水をもらっていた(p152)
・石狩川のショートカットにより、川底の泥炭層が削られて石狩川の水位が下がる、取り残された三日月湖は石狩川より高い位置に残される(p172)
・総大将が死ねば、次の総大将を決める一族内部の跡目相続に備える必要がある、他国との戦いよりも跡目相続のほうがはるかに切実で緊急を要する戦いである(p207)
・長篠の戦で差が出たのは、兵卒でなく、幹部重臣の戦死者数、織田軍ゼロに対して武田軍は20名以上(p210)
・毛利水軍に対して、信長水軍は長篠の戦で成功した鉄砲三段撃ちで臨んだが、毛利水軍に通用しなかった、逆に焙烙という焼夷弾で焼かれた(p216)
・成熟社会を達成した日本において、変革者になれるのは、保守的な強者の大企業ではなく、弱者のベンチャーである。新しい工夫をして未知の世界に挑戦できる(p219)
・中国人や韓国人と異なる日本人の性向は、何でも「縮める」こと(p226)
・多くの帝国は、荷物を馬車や牛車に乗せて大陸を疾走していたが、日本人だけが荷物を自分で背負い歩き続けた(p232)
・細工していないものは「不細工」、詰め込まないものは「詰まらない奴」と侮蔑した(p235)
・日本将棋は道具の改良が、日本将棋のルールの進化に繋がった(p250)
・熱帯では、昼は死んだように静まり返り、夜になると生気が溢れてくる、太陽は苦しみと死の象徴で、月と星は安らぎと生気の象徴である(p267)
・一神教の神の条件は、「いつまでも変化しない「永遠」」、「限りのない広さの「無限」」、「けして過ちを犯さない「絶対」の神」(p278)
・移動する民族は、放棄する・捨てる民族、必要最小限のものを持って移動する(p292)
・ナイル川沿いにある100基のピラミッド群はすべて、ナイル川西岸にある。これにより、ピラミッド群周辺に砂が体積して、連続した盛土の堤防となった(p330)
・葦に囲まれた巨大なデルタでの方向を見失わないための灯台が、巨大なキザのピラミッド建設の意味、それが3つあるのは、どの時間においてもどこかの面が太陽の光を受けるため、ピカピカの大理石を敷き詰めたのもそのため(p344)