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井沢元彦の学校では教えてくれない日本史の授業 (3)

井沢元彦の学校では教えてくれない日本史の授業 (3)の写真

・強い高句麗を滅ぼすために唐が組んだ相手は、朝鮮半島三国の中では一番力の弱い、新羅であった、これは遠交近攻の戦国策である(p18)

・天智天皇はなぜ百済救済に兵を送ったかだが、百済の王族と天皇の一族のルーツが同じだったという説がある(p19)

・中大兄皇子は「日本の天皇が百済の王子・余豊しょう王子を百済国の王に任命した」という形をとって軍団を派遣したので、百済復興のあかつきには百済は日本の属国になることを意味した(p20)

・国防を最優先としていた天智天皇にとって、畿に含まれていない近江(大津市錦織)が考えうる最も防衛に適した場所であった(p25)

・跡を継ぐ資格をもつのは長男ではなく、正妻が産んだ最初の男子「嫡男」である、さらに日本の皇位継承は、男系男子が基本、いくら母親が天皇でも父親が天皇でなければ皇位継承権はない(p30、34)

・壬申の乱は、日本国内における百済派(反唐派)と、新羅派(親唐派)の代理戦争、超大国である唐との付き合いをどうするかという日本国存亡がかかったもの(p35)

・中国本土を治める人間が皇帝、周辺国家の首長が「国王」という称号である、王という称号には、皇と比べて一段格下の存在(p41)

・持統天皇は最初に火葬された天皇、遺体をそのまま土葬にするか火葬にするかという問題は、単なる習慣上の問題でなく宗教の問題、キリスト教では最後の審判のときまでできるかぎり良い状態で保存するので土葬にした、それは遷都せずに今の都を使い続けることができるようにした(p51、57)

・穢れを忌み嫌う思想が具体的な形に現われているのが、古代日本で天皇一代ごとに遷都を繰り返してきたことにある(p55)

・天皇が中臣鎌足に姓を授けるとは、「おまえは中臣の一族から抜けて、新たに藤原という一族の始祖となりなさい」ということで名誉なこと。こうして藤原一族の第一世になった、その息子が藤原不比等である(p75)

・天智天皇の娘である持統天皇の野望を見抜いて接近したのが前政権(天武天皇)の生き残りだった藤原不比等であった(p77)

・藤原不比等が行った天皇家を乗っ取る方法は、後の平清盛と同様で、自分の血を引く藤原家の娘を天皇の妻にし、その娘が産んだ子供を次の天皇にする、最初の成功例が聖武天皇(p78、81)

・女性の皇太子は、安倍内親王は日本の歴史において最初で最後であった。天皇は男系継承がルール(男性の天皇の血を受け継いだ男子が跡と継ぐ)なので、結婚することは許されなくなる(p97、98)

・称徳天皇がやろうとしたのは、天皇制から中国のような皇帝制へ行おうとした。(p109)

・宇佐神宮は、全国にたくさんある八幡神社の総本社で、とても古い神宮、三柱の神が祀られていて、八幡大神(応神天皇)、神功皇后、比売大神(ひめおおかみ)である(p111)

・天皇が政務を果たす能力に欠けると判断された場合に皇族のなかから選ばれるのが摂政、関白は成人男子に対してもおかれる(p118)

・臣籍効果とは、普通「親王」と呼ばれる天皇の皇子に「姓」を与え、皇族の籍から臣下の籍に移すこと。有能な皇子を敢えて臣籍降下させることで、官職につけて藤原氏等の対抗勢力にすることで天皇の力を保つのが戦略(p124)

・親王が臣籍降下した源氏に対して、平氏は桓武天皇の孫なので、格で言えば源氏より一段格下である(p125)

・藤原氏があまり悪人のイメージをもたれないのは、有る時期から藤原氏が「藤原」を名乗らなくなったから。家を区別し、屋敷のある地名(いわゆる苗字)で呼ぶようになった。(p126)

・最高の名を贈ることで、その文字が持つ「言霊」の力を持って怨霊を鎮魂しようとした、例として「徳」をつけられた人、徳とは、最高の褒め言葉だったから(p129)

・日本人は平家物語を耳で聞いて楽しんでいたので、知らず知らずに文字を覚える基礎と培っていた。これがトップレベルの識字率を誇る民族になれた秘訣(p139)

・田んぼだった場所を庭にして別荘を建ててしまえば荘園の完成、そこでは課税されなくなる。このとき土地の所有が認められたのは、有力豪族と有力寺社に限られ一般民は対象外(p149)

・民が見捨てた口分田も少し手を入れただけで、またたく間に新たに開墾したから私有を認めることになった、それを申請するのも認定するのも藤原氏なので、やりたい放題になった(p150)

・中級貴族の生きる道は2つ、1)藤原氏に賄賂を使って地方国司に任命してもらう、2)国司が終わってから中央に戻らず地方に土着する。そのパターンとは異なるやり方をしたのが平家で、貿易を使った(p153,195)

・平将門は、中央に搾取されていた民の不満と期待を受けて立ち上がった。この夢を叶えたのが、200年後に登場したのが日本初の武士政権を樹立する源頼朝である(p167)

・東北地方において大和朝廷によって征服された人は大きく二系統(安倍氏と清原氏)、安倍氏は太平洋側で、岩手・宮城・福島、清原氏は日本海側で、秋田・山形(p180)

・国内の戦いにも拘わらず、外国との戦争を意味する「役」という言葉を用いるのは、当時の朝廷が陸奥の地に住む人々を自分たちと同じ日本人とは思っていなかった(p182)

・関東の武士たちは、武士の心を忘れた平家にとことん愛想を尽かしていた。彼らは平家のライバルである源氏の御曹司・源頼朝こそその人物だと期待した。源頼朝は与えるものを持たないので、相手が心から望んでいるものを将来的に与えるからと約束するしかない(p193,201)

・頼朝が優先したのは、都を武力制圧することでなく鎌倉で足下を固めること。それなのに源氏が平家を滅ぼせたのは、義経が、一の谷・屋島・壇ノ浦と奇跡の三連勝をしたから(p203)

・源氏は水軍を持っていなかったが、一の谷の戦いに源氏が勝ったことで、それまで平家に従って熊野水軍・伊予水軍が義経に協力した(p212)

・壇ノ浦の戦いで、三種の神器の、玉・鏡は回収できたが、剣だけは海中深くに沈んで見出せなくなった(p219)

・地頭を任命する権利を得たということは、頼朝が日本国惣地頭に任命された(1185)こと、つまり地頭は朝廷が認めた土地の正式な所有者になること。これにより武士の悲願を達成した(p223)

・鎌倉幕府の御家人を貧しくしてしまった最大の要因は相続(男女区別ない均分相続)であった、ただし御家人の立場のみ長男が引き継いで、長男の家を「宗家(本家)」、次男以下を分家といった(p236)

・鎌倉幕府を倒したのは、足利・新田といった有力武士だが、彼らをその気にさせて後醍醐に味方する決心をさせたのは、間違いなく楠木正成(悪党、本業は運送業)の活躍であった(p249)

・鎌倉武士はもともと騎兵集団、平地での戦いでは騎兵は歩兵の何倍の威力を発揮するが、山城では使えない(p263)

・鎌倉幕府軍は、二度も勝利を逃して幕府の権威は失墜して、幕府に属さない武士達が後醍醐軍に加わる(p264)

・後醍醐天皇は、足利尊氏が欲しがっていた征夷大将軍の職には、自分の息子である護良親王を任命した。(p280)

・足利尊氏の原動力となったのは、源氏の血と、武士の権利を認めさせる、という約束した源頼朝と同様(p286)

・必要な時に非情な決断ができないというのは政治家としては致命的欠陥、尊氏の優しさが60年も続く「南北朝」という大きな問題を作り出した(p290,293)

・室町幕府が京にある最大のデメリットは、武士の本場である東国を別の人に任せなければならないということ(p292)

・足利義満が行った「譲国の儀」は、南朝の天皇が北朝の天皇を正式な天皇と認め、三種の神器を譲ったことにするもの。狙いは北朝は傀儡政権でないかという噂を払拭する。(p302)

・東アジアで言う「国王」というのは、英語のKingとは異なり、中国皇帝の家来という意味である。持っていたものの10倍以上の土産を授けてくれる朝貢貿易は幕府経済を助けた(p309,317)

・関東を実質的に治めていた鎌倉公方は、足利持氏の子(成氏)の古河公方と、将軍義政の兄弟・政知の堀越公方に分裂して争っていた。当時は堀越公方の補佐をしていた関東管領である上杉家は、山内上杉家と、扇谷上杉家に分裂してそれぞれの両公方を補佐する形で争っていた(p326)

・織田信長が寺社と戦ったのは、宗教団体が政治経済に口に出し、悪徳と言ってもいい商売で法外な利益を得て、庶民を苦しめていたから(p355)