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変と乱の日本史 歴史を変えた18の政変とクーデター

変と乱の日本史 歴史を変えた18の政変とクーデターの写真

・実は大戦争よりも、ほとんど武力を行使しない政変や内乱、クーデターのほうが、歴史を動かすことが多い(p5)

・弘仁元年(810)平城上皇は、ついに還都令を出した、貴族たち全員に平安京から奈良の平城京へ移ることを命じた。嵯峨天皇は先手を打って、坂上田村麻呂を派遣していて平城上皇は諦めて出家した、こうして「薬子の変」は終わったが、最近では「平城太上天皇の変」とも表記され始めている、この政変の位置づけは、上皇の政治的権力を後退させて天皇の地位を安定させたことに加え、平安京が恒久的な都になったという意義がある、さらに藤原冬嗣が天皇と姻戚関係になり、子孫が摂政関白となる、摂関政治を作り上げることにつながった(p93、94)

・藤原道長は摂政になったが、関白職にはついていない、権力を握る必須条件は、摂政関白になることでなく、天皇の外戚(母方の親戚)になること(p98)

・江戸幕府の徳川将軍は15人、室町幕府も15人(最後は足利義明)、鎌倉幕府の場合は9人、三代将軍の実朝以降は、あまり知られていない。北条氏が執権や得宗として幕府の実権を握っていたので。(p134)

・足利義持は評定会議による合議制をとっていたが、義教は、管領である、畠山満家・斯波義淳(よしあつ)・細川持元・山名時煕(ときひろ)といった重臣たちから個人的に意見を聴取し、反対意見を述べた大名は再諮問、説得して政策を決定する「大名意見制」を採用した(p147)

・鎌倉公方とは、鎌倉府の長官の名称、足利尊氏は京都に政治の拠点をおいたが、それまで鎌倉幕府があった関東には鎌倉府と称する出先機関をつくり、三男の義詮(よしあきら)を派遣して関東を統括させた、のちに東北地方も支配地域を広げた(p149)

・秀次にとって、立て続けに弟が二人(秀勝:美濃国の岐阜城主、秀保:大和紀伊の大大名、藤堂高虎が家臣)立て続けに死んでしまったのは痛手であった(p188)

・大老に就任した井伊直弼は、将軍の跡継ぎを独断で決め、勅許(天皇の許可)を得ないまま通商条約を結んだ、これに孝明天皇は激怒し、正規の手続きである関白の裁可を得ずに、直接水戸藩に勅を下した、これは明らかに幕府をないがしろにしている(p214)

・八月十八日の政変では、天皇を味方につけた公武合体派(会津藩、薩摩藩)が、尊王攘夷派公卿(長州)を除外した、その結果、一橋慶喜や京都守護職の会津藩主・松平容保が実権を握った(p219)

・廃藩置県は、薩摩藩と長州藩のクーデターという形をもって、明治4年7月14日に突如として断行された。(p223)

・中央新政府は徳川家の領地を公収して直轄地(府・県)としたものの、それは800万石程度、当時は270近い地方政府が存在して、それぞれが独自に政治を行っていた。一方で、徳島・鳥取・熊本・尾張などの大藩がみずから廃藩をもとめた(p225、230)

・まずは、薩長土肥の知藩事と代表者が朝廷に呼び出され、明治天皇からの勅語によって廃藩が告げられた、ついで、鳥取・尾張・徳島などの知藩事に同様の勅語があり、午後2時には、在京中の知藩事56名が呼び出されて勅が下された(p236)

・反発が起きなかったのは、廃藩置県後も、藩の借財はすべて新政府が請け負い、さらに士族の禄(給料)もこれまで通り政府が負担すると約束したから(p237)

・西郷隆盛が下野したのに続いて、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の江藤新平、などの参議も続いた。軍警察の薩摩出身者も退職し、これを「明治6年の政変」という、これにより明治政府は真っ二つに分裂した、残った大久保利通らが、殖産興業・富国強兵を行った、下野した参議たちは、自由民権運動を起こした、これに賛成した参議は、佐賀出身の大隈重信、長州の伊藤博文、井上馨であった(p256、261、262)

・浜口内閣は長期不況を打開するため、円高状態をつくりだすことにした、円高になれば輸出には不利だが、不良企業を淘汰、合併により国際競争力をつけさせっようとした、なので、金本位制への復帰を、旧平価により行い、円レートを上昇させようとした(p297)

・満州は日本の3倍の土地がある、もし日本の領土になれば不景気は解消される、小作農は大陸に渡って地主になれると希望をもち、国民の多くが満州事変に熱狂、軍部を支持した(p298)