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逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~

逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~の写真

・日本で一番古い貨幣は、無文銀銭であり、富本銭もあるが、少量しか生産されておらず、初めて本格的に流通したのは「和銅開ちん」である。それまでは布や米などが貨幣の役割をしてきたが、ヤマト政権は708年から大量に鋳造して国家的に流通させようと法令(711)まで出している(p28)

・鎌倉新仏教の六つとは、1)浄土宗(法然)、2)浄土真宗(親鸞)、3)時宗(一遍)、4)日蓮宗(日蓮)、5)臨済宗(栄西)、6)曹洞宗(道元)であるが、成立・普及したのは江戸時代になってから、鎌倉時代は依然として、東大寺・興福寺・延暦寺・東寺なとの旧仏教が中心勢力であった(p37)

・鎌倉公方・足利成氏は後花園天皇が源氏追討の綸旨を出したので朝敵となった、成氏は下総国古河(茨城県)に御所を定めて、古河公方を名乗って上杉勢力と戦い続けた。八代将軍義政は、異母兄である足利政和を還俗させて鎌倉公方に派遣したが、成氏の勢力が強く鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越を拠点にした、こうして鎌倉公方は、古河公方と堀越公方に分裂した。(p44)

・歴史を学ぶ意義は、それを自分の人生に役立てることにある、全く同じことは決して起きないが、同じようなことは過去に何度も起こっている。だから過去の人間の失敗や成功、偉人の行動に学んで、それを各人の将来や生き方に活かす、それこをが歴史を学ぶ意義である(p51)

・桓武天皇が崩御して平城が好意につくと、寵愛した薬子を宮中に呼び戻した、その後、平城天皇は精神病にかかり3年で嵯峨に譲位してしまう、病気が回復すると薬子は平城上皇に強く復位を求めるようになり、平安京から平城京へ多数の貴族や官僚を引き連れて政治を動かし始めた。そこで、嵯峨天皇は上皇方との対決を決意、結局は平城上皇は旧平城京へ戻って出家した(p102)

・九州北部から入った稲作は、西日本から東海、関東を経て東北へ入ったように思い込んでいたが、関東の方が東北よりも稲作の導入が遅かったことが近年判明してきた・この時期の関東は自然が豊かで狩猟採取で十分暮らせたのであえて稲作を導入するメリットがなかったと考えられている(p136)

・そもそも江戸時代は鎖国なんてしていない、断交したのは、スペインとポルトガルの2国だけ。領土的野心を抱くカトリック王国と判断されたから、オランダ、中国(明→清)、朝鮮とはそのまま交易を続けている(p145)

・年貢は村単位でかけられたが、本年貢は「五公五民」ぐらいであった、ただ四代家綱以降は幕府は大規模な検地をしなかった、土地の生産力は上がり新田開発により耕地も増加しているので、江戸後期には実質的な税率は、十数%程度だったという説もある(p150)

・幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、1840年に、河越・庄内・長岡3藩の領知を互いに入れ替えることを命じた、川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が長岡藩へ、長岡藩が川越藩に移った。これに対して庄内藩の農民が転封を阻止するための一揆を組織した、殿様にいて欲しいから一揆を起こしたのは前代未聞であった。この運動は他の大名の同情を集め、1841年7月、ついに幕府は領地替えを撤回した、一度出された幕府の転封命令が領民の反対で引っ込められたのは初めてであった(p153)後に、幕末において東北諸藩が降伏しても庄内藩は抵抗して強かった、庄内藩のみ、領民も藩士とともに戦闘に参加したから、庄内軍4000のうち、半数が農民や町人であった。長年の善政がこの状況を現出させた(p154)

・江戸時代の、三行半は「再婚許可状=離婚した後は誰と再婚しても構わない」という、再婚許可状である、これをきちんと妻に渡さないで勝手に再婚した場合、その夫は「所払い」という刑罰に処せられる(p156)縁切寺で有名なのが、鎌倉の東慶寺である(p159)縁切り制度は、1873年に女性に離婚請求権が認められたことで終わりを迎えた(p162)