・イエズス会とスペインを敵に回したために、信長政権はとたんに不安定化した、キリシタン大名(高山右近、中川清秀、黒田官兵衛)や南蛮貿易で巨万の富を得ていた豪商たちが、信長を見限り始めたから(p17)
・キリシタン大名は、イエズス会と協力し、信長が光秀に打たれた直後に決起、光秀を討つことで羽柴秀吉に天下を取らせる計略を立てた、秀吉の中国大返しは、こうして実現した(p19)
・江戸時代の史観によって戦国時代史を語っているために、本当のことがわからなくなっている、その中核を成しているのは、鎖国史観・士農工商の身分差別史観・農本主義史観・儒教史観である(p20)
・二条御所で信忠が討死したのを聞いた、清玉上人は、光秀に申し出て信忠と家臣たちの遺体を引き取った、清玉上人は正親町天皇の勅願僧に任ぜられたほどの高僧なので、光秀も無下に断れなかった、また清玉上人は信長の遺骨を引き取り、本能寺から逃れる僧たちにまぎれて脱出した(p29)
・信長は三好三人衆を討つべく、将軍義昭を総大将とした負けるはずのない戦であったが、9月12日に突然、石山本願寺が反旗を翻して、一向一揆の軍勢が信長軍に襲い掛かった、このとき浅井・朝倉三万も南近江へ乱入して、宇佐山城を守る織田信治・森可成を血祭りにあげた(p82)
・比叡山延暦寺までも半信長となり、絶体絶命のピンチにたった信長は、正親町天皇の勅命により、浅井朝倉、比叡山に和睦を承諾させた、この9か月後には、比叡山を焼き討ちにした、勅命・聖書も反故にした(p84)
・朝廷を支配下におくためには、猶子としていた五の宮を皇位につける方法があった、そうすれば信長は名目的には天皇の父となり、太上天皇となって院政を行うことができる。こうした地位に挑戦しようとしたのが日本国王と称した足利義満である、義満は37歳で将軍位を嫡男義持にゆずり、次男義嗣を親王に準じて内裏で元服させて、やがては皇位につけようとしたが、急死した(p100)
・武田討伐事には、信忠を大将とする5万の軍勢(伊奈口)、徳川家康3万(駿河)、北条氏政3万(関東から甲斐・信濃)、信長本隊は7万の、総兵力は18万余(p105)
・戦国大名にとってもっとも重要なことは、劉通路を押さえることであった、川・海の港を押さえ、関銭(関税)や津料(港湾利用税)を徴収した、この収入はコメの売買から上がる収益よりもはるかに大きい(p119)
・普通は、先にお茶、次にお菓子と思うが、お茶の作法を、ミサの作法にならったとすれば納得がいく(p124)
・信長はイエズス会の仲介によってポルトガルと親交を結び、南蛮貿易によって硝石や鉛などの軍事物質を得ていたが、ポルトガルがスペインに併合されたために、スペインと親交を結ばなければ南蛮貿易を円滑に続けられない状況に陥っていた、スペインの要求は、1)民国征服の軍勢を出すこと、2)イギリス・オランダと絶交すること、であった、これを拒否して、イエズス会と絶交し、キリスト教を禁じた(p134、140)」
・秀吉が明国征服を明言した天正14年(1588)には、スペインと同盟すれば勝てる見込みがあったが、その時には前提が崩れ去っていた、イギリスとドーバー海峡で戦い、無敵艦隊の3分の2を失っていたから(p147)
・一般には足利幕府は義昭が都を追われた元亀4年(1573)に滅亡とされているが、最近では彼が出家した天正16年(1588)で終焉とする説が主流となった、鞆の浦を拠点とすることで、瀬戸内海の流通経路を押さえ、西日本の経済掌握により、大名達を味方に引き入れることもできた(p186)
・戦国時代に来日したイエズス会の宣教師達は、一向宗(浄土真宗)の教義があまりにもカトリックの教えに似ていることに驚いた、そして一向宗を潰さなければ、この国で布教を成功させることはできないと思った、なので信長を支援して一向宗の弾圧をおこなわせたという説がある(p204)
・戦国時代にキリスト教があれほど多くの信者を獲得し、江戸幕府の弾圧にも屈することなく命脈を保ったのは、キリスト教的な信仰が「景教」という形で日本に深く浸透してからかもしれない(p204)