・承久の乱が日本史最大の転換点といえるのは、この乱以後、明治維新に至るまで、実に約650年にわたって武士が日本の政治を司ることになる(p4)
・承久の乱の最大のみどころは、実際の戦争が始まる前段階にある。これが広く伝わっていないので、関心が低いといえる(p3)
・鎌倉幕府は、室町幕府(足利氏)江戸幕府(徳川氏)と違って、創業家が将軍の座を独占できなかった。150年続く鎌倉幕府は三代で絶えた。(p7)
・当時はだれも鎌倉幕府が生まれたとは考えていなかった、武士が政治を司った体制・政権を一般に幕府と呼ぶようになったのは、明治時代のこと(p21)
・関東で勢力を広げた平家のなかで、もっと豊かな西国に移ろうと考えた一族が、平清盛を生んだ伊勢平氏(p29)
・義朝を父とする頼朝は、母方の家柄の良さ(熱田神宮の大宮司の娘)もあり、三男なのに生まれた時から源氏の跡取りとみなされていた(p31)
・頼朝が反平家を掲げて蜂起したときに従ったのは、舅の北条時政とその家来、地元合わせて90人あまり。石橋山の戦いで大敗北を喫したのちに、千葉氏、上総氏等の豪族を味方につけて、河越氏、畠山氏を従えて相模、鎌倉に入って本拠地とした、この時に事実上、鎌倉幕府は誕生した(p33)
・関東の在地領主が求めたものは平家の討伐などではなく、東国の新しい秩序の樹立であり、そのトップとなることを頼朝に求めた、旧来の朝廷による支配か、在地領主の権利の保障かが大事であった(p35、36)
・刀が武士の象徴となるのは、実戦から遠ざかった江戸時代のこと、それまでは弓や槍が有効な武器とされ、刀はよほどの接近戦にならないと出番はなかった(p41)
・駿河、伊豆、相模(鎌倉)、武蔵の4か国は東海道で連なり、政治・経済・文化の面で深い連関をもっていた。これが鎌倉武士の本場であった。(p47)
・頼朝政権の権力が及ぶ範囲はあくまで東国中心、地頭を任命できたのは、もともとの東国武士の土地に加えて、「平家没官領」という平家の旧領や謀反人の土地に限定されていた(p49)
・頼朝が最も信頼を寄せていたのは、比企氏であった、梶原氏(頼朝・頼家に重用)の両氏を滅ぼすことで、北条時政は幕府の主導権を握った(p65)
・北条時政をなぜ他の御家人たちが支持したかというと、頼家の将軍としての権力が強くなりすぎているという危機感を持ち始めていたから(p71)
・頼家が病に倒れて、関西38か国を千幡(のちの実朝)、関東28か国を一幡(頼家の長男)の分割統治となった(p83)
・平安後期から鎌倉初期に関しては、天皇という地位よりも、天皇家の家長である「上皇」の方が力を持った、これが院政である(p100)
・治暦4(1068)年、実に170年ぶりに母が藤原氏でない天皇、後三条天皇が即位し、天皇親政を復活させた。切り札は、荘園整理令であった、これにより藤原氏は荘園の3分の1を失うことになり権力基盤を削られた(p102)
・当時の相続は子供が二人いれば土地は二分割とされていたので、上皇や天皇の娘である内親王は、結婚せずに独身のまま一生を終えることがほとんど、生活費としては荘園を与えられて、そこの番人として暮らした(p106
・北条義時は、和田義盛から、侍所別当(長官)を奪い取ることに成功し、政治・軍事とも握る体制が確立した(p130)
・大内惟義は幕府によって、近畿周辺の6か国(越前、美濃、伊勢、伊賀、丹波、摂津の守護に任命された、特に、日本を東西に分断する越前・美濃・伊勢には、愛発(あらち)・不破・鈴鹿関があり重要である(p140)
・幕府は、天皇の息子である親王を将軍に迎えることは、朝廷も幕府もともに天皇家をいただくものとして同格の存在となり、より独立した国家として歩む大義名分ができると考えた、朝廷はこれが朝廷による幕府支配の実現と考えた(p164)
・承久3年5月15日、後鳥羽上皇はついに鎌倉幕府の追悼を決意した、それが正式文書である「官宣旨」なのか、略式版の「院宣」なのかは議論が分かれる(p169)
・近代の戦争では三割が死傷すると、ほぼ全滅とみなされる。命令系統がズタズタになり軍隊の体をなさなくなるから(p181)
・後鳥羽上皇は北条泰時に使いを送り、全面降伏ともとれる院宣を伝えた、ポイントは、1)もう政務には口出ししない、2)これから武士たちを出仕させない、貴族でも家業をつがず武芸のけいこをしているものは朝廷に出仕させない、これは武力放棄を宣言している(p189)
・西国の守護達の権力の源泉は、「地位」の論理、東国のそれは「人」の論理である、この差が動員力の差となった(p198)
・承久の乱で幕府が得た後鳥羽系の荘園は3000に及んだ、平家を倒したときの領地の6倍となり北条政権は盤石なものとなった、これはそれまで東国中心だった幕府の支配地域を日本全国に広げるものであった(p208)
・日本という国のメインプレーヤーが貴族から武士という在家領主へ、そしてそれ以外の一般の民へと広がっていく過程であった、その大きな画期となったのが、承久の乱であった(p213)
2019年4月29日