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summary

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)の写真

・日中戦争期の日本は、「匪賊、つまり国内で不法行為を働く悪い人々を討つ」のであり、戦争ではないとして戦いの相手を認めない感覚を持っていた。2001年時点のアメリカと、1937年の日本とが同じ意識で目の前の戦争を見ていた(p27)

・アメリカの南北戦争では合計で18万人、太平洋戦場での死者は9万人、欧州を含めた全体で29万人の死者を出している、南北戦争の傷は大きい(p38)

・巨大な数の人が死んだあとには、国家には新しい社会契約、すなわち憲法が必要となるという真理がある、戦争放棄・紛争解決手段の武力行使の違法化となると、戦争の概念として許されるのは、自衛戦争・侵略国に対する制裁行為のみとなる(p43、48)

・軍事面での指導者と政治面での指導者を分けておく(統帥権独立)は、西南戦争の後にできたもの、これが結果的に人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄の一つであるかもしれない(p82)

・第一次世界大戦は、アメリカ大統領ウィルソンが提示した14箇条の内容が穏健なものと判断したから、しかし19年のパリ講和会議において、イギリス・フランスによって葬られた(p89)

・アメリカがベトナム介入したのは、中国喪失の体験があったから。中国を共産国にしてしまったのでアメリカの態度を強く縛った(p94)

・明治政府はフランス法をモデルとして、まずは刑法と治罪法(刑事訴訟法)を憲法に先行して公布している(p103)

・1884年フランスがベトナムの港を独占的に使用する動きを見せた時、清国は清仏戦争に打って出る、これに列強は目を見張った。武力に訴えてでも華夷秩序=朝貢体制を守ろうとした(p112)

・朝鮮の東学党の乱の「東学」とは、西学(キリスト教)に対して名付けられたもので、儒教を根幹として、仏教・道教・民間信仰が合わさった当時の朝鮮の民衆宗教であった(p151)

・普通選挙の思想は、三国干渉を受けて返してしまった政府に対して、民意が反映されていないと感じたから(p163)

・日露戦争が始まるころは、大国に対して不平等な地位にある国は大使館を置くことができない、公使館どまり。日本の公使館が大使館に格上げされたのは、1905年12月のこと、日露戦争の講和条約(9月)締結後である(p167)

・日露戦争も代理戦争、ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本にはイギリス・アメリカである、米英は日露戦争前に不平等条約改訂を約束している(204)

・日露戦争では、中国では中立を保っていたが、地域の官僚たちのバックアップ、土地勘のある農民たちの諜報活動のための協力が日本軍への勝利をもたらした(p210)

・ポーツマス講和条約の第三条が、ロシア以外のすべての帝国主義国にとって福音であった、ロシアが独占していた、黒竜江省・吉林省・遼寧省に対して、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスが入れるようになった(p211)

・日露戦争後に増税されたことで、選挙資格を制限する直接国税10円を結果的に払う人が、1.6倍となり選挙権を持つ人が150万人となった(p218)

・第一次世界大戦を終えて欧州で長い伝統を持っていた3つの王朝(ロシアロマノフ王朝、ドイツ・ホーエンツォレルン王朝、オーストリア・ハプスブルク帝国)がなくなった、日本では米騒動の状況をみて、政党内閣を誕生させた(p222)

・ロシアは第一次世界大戦後にドイツに対して、フィンランド、ロシア領ポーランド、リトアニア、ウクライナ、エストニア等を割譲した。近代以降で最大である(p248)

・アメリカ大統領ウィルソンが言った民族自決とは、かなり限定された地域、そこは、ロシアがドイツと講和したときに割譲したポーランド、中立が侵害されたベルギー・ルーマニア・セルビアである(p272)

・アメリカは第一次世界大戦後の講和会議において、ケインズが主張するような経済学が支持する打倒な計画に背を向けて、英仏からの戦債返済を第一とする計画をパリ講和会議において主張した(p284)

・陸軍省は、出征中・在営中の満州事変に出征した兵士を解雇しないように雇用主に求めていた、そしてその保障を勝ち取っていた。全国労農大衆党は「帝国主義戦争反対」をかかげて選挙を戦ったが、陸軍を怒らせるスローガンは通りにくかった(p354)

・除名や制裁を受けるよりは、日本は自ら国際連盟を脱退することを決定した(p357)

・アメリカは中国にパイロット付きで飛行機100機を援助した、日本側は焦ったので、イギリスフランス権益が集中する東南アジアの制空権を押さえて、英仏牽制するためにも、仏印(フランス領インドネシア)に飛行場が必要だと考えた(p420)

・アメリカとイギリスは1941年9月28日に、ソ連に対して軍需物質を送る協定を結んだ、42年春までソ連戦線が持ちこたえてくれれば良いと考えた(p430)

・1937年に始まった日中戦争からの特別会計が帝国議会で報告されるのは、1945年11月(戦後)であった、41年までに使っていた臨時軍事費は256兆円(800倍と考えると、20兆円以上)(p432)

・アメリカからの潜水艦攻撃にやられるままであったのは、護衛船団方式ではなく、制空権の確保を前提とした、面での防衛を考えていた(p437)

・宣戦布告なしの奇襲作戦をしたのか、資源の乏しいドイツ・イタリアを三国同盟したのか、いろいろ議論が繰り返されるが、速戦即決以外で日本が戦争を行うプランをつくれたのか(p444)

・アメリカと日本の戦争は、1944年6月のマリアナ沖海戦で、もう絶対に決着がついている。旧ドイツ領のサイパン、グアムが含まれる海域で日本は決定的に負けて、空母・航空機の大半を失う。ミッドウェー海戦が有名だが、この1942年時点では、日本陸軍により香港、フィリピン、シンガポール、ジャワ、ビルマへの侵攻成功から、まだ健在であった(p452)

・日本古来の慰霊の考え方、若い男性が未婚のまま子孫を残すことなく郷土から離れて異郷で人知れず非業の死を遂げると、こうした魂は「たたる」というもの(p459)

・終戦時、海外に民間人は321万人、軍人は360万人いた、そのうち200万人が満州にいた(p463)

・満州への分村移民をすすめる際に国や県が勧めたのは、特別助成や別途助成という施策があった(p407)

・農業生産をささえる農学校出の人たちもみんな兵隊にしたので、残った人により農業がおこなわれた結果、44-45 年の農業生産は落ち込んだ、徴集猶予を始めるのが44年であった(p470)