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日本史のツボ (文春新書)

日本史のツボ (文春新書)の写真

・天皇が他豪族への優越を保つ機能を確立するのに重要な役割を果たしたのは、天智天皇(-671)、天武天皇(-686)、持統天皇(-702)である。日本ブランドの創生をし、それを促進したのは外圧であった、天武・持統の時代には、律令制の導入により土地はすべて天皇のものであるという公地公民制がひかれ、701年には大宝律令が整備された(p15、18)

・乙巳(いっし)の変(645)に勝った天智、壬申の乱(672)に勝った天武が強い力を誇ったのは、実力で天皇の座を手に入れたことが大きい。権力闘争に明け暮れていた時期には、継承が安定しないので系図は横に広がる、天皇が権力を失うと皇統が乱れずに系図は縦一直線となる(p23)

・日本全体が土地争奪戦に突入、つまり律令制(公地公民)が崩壊したことが、日本における中世の幕開けと言える(p26)

・鎌倉幕府が1192年に開かれた時点では、西の朝廷は辺境の武士たちの軍閥くらいと考えていたが、鎌倉幕府の優位が決定的になるのは、1221年の承久の乱で、後鳥羽上皇がこの戦いで大敗して天皇の権力を大きく減退させてから(p27)

・江戸時代に入ると天皇の仕事は、学問と定められた、改元も仕事とされたが、将軍の代替わりには必ず改元されたが、天皇の場合には行っていないときもある。暦も1685年には、渋川春海が完成させた、貞享暦に代わった(p37)

・白村江の戦い(663)は、唐に侵略されるかもしれないという脅威の大きさにおいて、後の元寇、黒船襲来、昭和の敗戦に匹敵するほどの国家の危機であった(p45)

・天皇家では仏教が神道よりも重視されてきた、神官よりも僧侶のほうが格段に位が高い。神官の最高位である神祇伯は従四位下で公卿ではない、仏教では入道親王が数多くいる(p46)

・仏教は、あくまでも修行僧個人の信仰であったが、平安時代に大寺院の内部に「院家」ができて変質していった、延暦寺の中の青蓮院、妙法院、三千院、興福寺の大乗院、醍醐寺の三宝院等がある(p51)

・平安仏教の在り方に異議を唱えて、仏教だけでなく政治・社会の在り方をも変えようとしたのが、鎌倉新仏教である。法然が説いた教えは、2つの意味で「やさしい教え」であった。誰でも救済するので、優しい、誰でもできるので。易しい(p55)

・信長が目指したものは、自らを頂点としてピラミッド型・縦の支配体制であった、惣村+一向宗の平等型の共同体は、それと真っ向から対立する原理であった(p62)

・日本の宗教史において、白村江につぐ外圧は「キリスト教伝来」である、宣教師がバチカンへの報告書に「カトリックと類似する考えをもち、ライバルとなるのは浄土宗である」と書いている(p60)

・在地領主は、教科書において「土地を寄進した」と表現されているが、毎年お米(例:400石)を年貢として納めるので、土地を国司から守ってください、という口利きの依頼である(p76)

・中央があてにならないとなると、地方の在地領主は自力救済しかない、これが武士の誕生である。国衙では4年に1度、大きな狩りを行って土地の神様に祈りを捧げていた。この狩りに出られる者(在地領主層)までが武士である(p80)

・貨幣経済が日本の隅々にまで浸透するのは、13世紀の半ば、1225-1250年くらいである。土地を売るときの証文は、それまでがコメであったが銭に代わる(p84)

・京都に室町幕府を開くが、京都を選んだ理由として、1)銭への対応、鎌倉幕府は貨幣経済に対応できずに滅んだ、2)足利政権が弱体で、朝廷などの京都の旧勢力と交渉せざるを得なかった(p88)

・戦争に勝つための条件は、古今東西問わない、1)敵を上回る兵力、2)優れた装備、3)大義名分(p98)
・通説では、応仁の乱は、十年戦って引き分けとされるが、終わってから、細川家が管領の座を独占、幕府の中で専制的な権力を振舞うことになるので、細川家・東軍の勝利である(p107)

・関東という言葉は、本来、愛発(琵琶湖の北、越前=北陸道)・鈴鹿(東海道)・不破(関ヶ原=東山道)の東側を指す、朝廷のある近畿地方は「西」ではなく、中央であった。(p120)

・日本の神社で、稲荷神社の次に多いのは八幡神社、戦いの神様でおおもとは、大分にある宇佐八幡宮である、近畿から瀬戸内海を通って北九州に至るエリアが、古代朝廷が自分の国であると実感できるゾーンであった、なので西には関所がなかった(p121)

・関東で勢力を持つのは源氏より平氏が先である、平将門が良い例、平家で関東に留まったグループとしては、相模国の三浦氏、上総の上総氏、下総の千葉氏である、北条氏もそうである(p131)

・承久の乱の後、鎌倉幕府は、朝廷監視として、六波羅探題を設置、尾張から西が管轄となった、三河から東が鎌倉の管轄であった。東西の境界線=三河に配置されたのが、足利氏であった。だから三河と尾張のあたりは、東西の文化や経済の境でもあり、両方が交流しあう場所でもあった(p134)

・尊氏が開いた足利政権が本格的に確立するのは、尊氏の孫である三代将軍・足利義満の時代である、室町幕府という呼び名も、京都の北小路室町に花の御所を建てたことに由来する(p138)  

・義満の補佐役を務めた細川頼之は1392年(前年末、山名氏を討伐)、関東地方・東北地方を切り離した、関東公方に関東地方だけでなく東北地方も任せた、つまり室町幕府の責任範囲を中部地方から西に限定させた、博多は山口の大内氏、関東公方のお目付け役を今川氏とし、この2大名のみ現地に住んだ(p138)

・室町時代の日本を、都と「鄙=ひな」に分けている。都には、京都・近畿・中部・中国・四国の4つが含まれている、鄙は、関東・東北・博多以外の九州=鎮西、ここでいう「都」が室町幕府の統治範囲である、この関係がひっくり返るのが戦国時代である(p140)
・1467年の応仁の乱は、戦っているのは都の守護大名たちであり、鄙の大名は対象外、京都が戦場となり焼け野原となり室町幕府が機能しなくなったので、大名たちはそれぞれの国に帰っていった、しかし守護大名から戦国大名になれたのは、武田・大友・島津・少弐・大内・今川くらい(p141)

・信長のライバルとして、1)越前(福井)、最大の強みは京都へのアクセスの良さ、三国港を擁しているのもメリット、2)播磨(兵庫)、京都に近くて鉄も産出、瀬戸内海に面している(p143)

・関ヶ原の地は天下分け目の戦場となる、最初の戦い(壬申の乱)では天皇が誕生、二度の戦い(青野ヶ原の戦い)では、室町幕府が誕生、関ヶ原の戦いでは、江戸幕府が誕生した(p147)

・豊臣政権が崩壊したのは、秀頼が幼かったからではない、朝鮮出兵がもたらした疲弊・混乱によって、人心が離れてしまったこと(p147)

・日本が男女別姓だったのは事実であるが、それは実家の家父長権が強くて結婚してもそこから抜けられなかったため、実父の苗字を名乗っていた、だから父の支配権の強さと、結婚後も女性に一定の財産などが確保されていた(p169)

・夫婦墓の時代は夫婦別姓である、それが江戸時代の元禄期あたりに家族墓となり、手請制度ができて宗門人別帳などで住民を管理するようになる、このあたりから夫婦同姓になる(p180)

・遣唐使の廃止(894)は国風文化が花開く面もあるが、一方で律令的経済が本格的に崩壊していく時期でもあった(p195)

・欧州にたとえると、瀬戸内海が地中海、日本海交易が、北海・バルト海貿易になる(p198)

・平清盛は、日宋貿易に着目して、京都の外港として福原(兵庫)に港をつくる、これが後の神戸港である。神戸と博多を結ぶ途中に、宗教的・経済的拠点としたのが、広島の厳島神社である(p200)

・日本と中国を行き来するときに、当時はバラスト(重し)が必要であった、日本から行くときには材木であったが、帰りは、宋の銅銭であった(p202)

・国司のポストが売り買いされていた、三河の国の国司が文永元年(1264)で、3600貫=3.6億円であった。地位は中納言以下(p204)

・なぜ江戸時代には銭からコメへと逆転現象が起きたのか、関東地方、東北地方で銭本位経済についていくのは非常に難しかったからではないか(p205)

・江戸の人間にとって、上方から下ってきたものが高級品、下ってこないもの=上方のものでない品は、品質が落ちる=「下らない」という表現が生まれた、これは東西格差を表す言葉であった(p216)