suu3.jp 戻る

summary

東京23区境界の謎

東京23区境界の謎の写真

・1867年11月の大政奉還、翌年5月に江戸城が明治新政府に明け渡され、7月に江戸府が開設された、そして9月に東京府となった。当初の東京府の管轄区域は、町奉行が支配していた範囲(墨引)の内側であった(p24)

・明治2年、明治新政府は武蔵国にある旧幕府領を管轄するため、東京府の外側に、小菅県・大宮県(のちに浦和県)・品川県を設置し、境界線を新たに引き直して「50区制」を採用した、明治4年4月の戸籍法により、身分制度が廃止、町人地・武家地・寺社地の区別がなくなった、7月には廃藩置県があり全国が3府302県に区分され、11月には3府72県となった(p24)

・東京が市制になったのは、関東地方では、水戸市・横浜市についで3番目、全国では32番目、東京府は東京市15区6郡から構成されるようになった(p32)

・明治29年に東多摩郡と南豊島郡が統合されて「豊多摩郡」となり、東多摩郡は消滅し、北・南・西多摩の三多摩となった(p36)

・太平洋戦争真っ最中の昭和18年7月、閣議決定により都制が施行されることになった、東京府と東京市が廃止され、東京都が設置された。正確には、東京市が東京府に併合されて、それが東京都となった(p42)

・日本橋から各街道の最初の宿場、すなわち、品川・千住・板橋・内藤新宿を「江戸四宿」といって、江戸の出入り口の重要な役割を担っていた(p70)

・昭和39年の河川法改正により、本流が一級河川ならその支流も、そのまた支流も一級河川であるという考え方になった、これより荒川放水路が荒川の本流となり、正式な河川名が「荒川」となった。一方、岩淵水門から下流はこれまでは「荒川」と呼ばれていたが、この法律により「隅田川」となった(p78)

・板橋区と戸田市の境界変更は円満解決だったこともあり、荒川河川敷で「戸田橋花火大会」が開催された、いまでは「いたばし花火大会」「戸田橋花火大会」という別々の大会だが開催日は同じ日である(p89)

・昭和33年に、新宿・渋谷・池袋が副都心、57年には、上野浅草、錦糸町亀戸、大崎が追加、平成7年には臨海副都心が誕生した(p109)

・江戸川放水路は、河川法改正により昭和40年からは「江戸川」、放水路開削まで本流だった江戸川は「旧江戸川」と呼ばれるようになった(p124)

・東京は戦争で壊滅的な被害を受けたため、昭和22年に東京35区は23区に統合された、単独で行政を運営していくことが困難となり合併せざるを得なかった(p149)

・平成12年(2000)に行われた地方分権改革により、23特別区は都の内部団体としての地位から脱却し、一般の市町村と同じ基礎的自治体として規定された(p156)

・大塚駅は今でこそ池袋駅の10分の1程度の乗降客数だが、戦前は池袋よりはるかに賑わう街だった、大塚駅こそが豊島区の中心駅であった(p172)

・明治36年、常磐炭田で採掘された石炭を横浜港へ輸送するために、田端と品川線を結ぶ路線が建設され、これが山手線の一部区間となった。このときはじめて池袋に駅が開設された、品川線から田端へ通じるための分岐駅として。当初目白駅を分岐駅とする予定が住民の反対があった(p175)

・目黒川という河川、江戸時代にはこの河口に「品川湊」という港があった、また目黒川の古名を「品川」といった(p236)