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summary

権力の日本史 (文春新書)

権力の日本史 (文春新書)の写真

・天智天皇(大化の改新、中大兄皇子)天武天皇(天智天皇の弟、壬申の乱の勝利者)持統天皇(天武天皇の妻)の時代に、日本は大きな歴史的転換をした(p16)

・天皇は成人の男性という縛りがあるので、持統は自分が天皇になり、軽皇子が成長するまでの「中継ぎ」になり、持統天皇は太上天皇として、文武天皇(軽皇子)を補佐した、皇位継承ルールが大きく変わった、兄弟間のヨコの継承から、父子の直系による縦の継承となった(p23、24)

・日本史上初の上皇の誕生は、氏族のなかで同世代からリーダーを選ぶ「ヨコの継承」から家族内で父と子という上下関係に基づいて、財産や権限の相続を行う「縦の継承」への家族システムの移行であった(p26)

・政治の実権は、摂関期には天皇の外戚すなわち母方の実家である藤原家に、院政期には父方の上皇に握られてくる。そうすると天皇は戦闘においてリーダシップをとることもなくなり、成人の男性である必要性も薄れてくる(p28)

・氏と家の違いをよく表しているのが名前である、藤原道長は、藤原の道長、これは彼らが「氏」の世界に属しているから、藤原氏は特定の家ではなく、より広い一族を表している。それが次第に家になっていく、北条泰時、足利尊氏、織田信長には「の」は入らない(p31)

・執権は8代執権の時宗まで北条本家(得宗家)からでていなく北条家の傍流からでているが、実権は本家のまま時頼は執権を引退しても絶大な権力を振るった、なぜなら彼が北条家の当主だから(p40)

・鎌倉幕府の滅亡は、後醍醐の勝利というより自滅である、土地本位制の鎌倉幕府が貨幣経済の発展に対応できなかった、元寇の外圧もあった後、源氏将軍家の名門の家長である足利尊氏が立ち上がったので御家人が幕府から離反した(p46)

・自滅した武家政権=鎌倉幕府が再び安定を取り戻すのに60年かかったので南朝はなくなった、この後醍醐の企てののち、明治維新まで天皇家の家長が最高権力者を目指すことはなくなる(p47)

・摂関家とは摂政・関白になれる家である、まず近衛・松殿・九条が成立したが、松殿は滅亡した木曽義仲と組んだので没落、近衛家から鷹司家、九条家からは、二条と一条が分立した(p54)

・京都東寺にある五重塔は、明治維新前に建てられたものの中では日本一の高さ、54メートルもある。真言宗の大寺院である、西寺は平安時代に荒廃しいまは跡のみ(p82)

・科挙の試験は、郷試(3年に一度各地方の統合府で実施)、郷試の翌年に都で会試が行われこの試験の成績により官職が割り振られる。会試での成績優秀者を集めて皇帝の前で行うのが「殿試」これは形式的なテストであった(p98)

・源義経は、長官、次官につぐ三等官である「判官」の一人であったので、源九郎判官の名称が生まれた(p132)

・天皇はただ神器を継承しているだけではダメで、三徳(正直、慈悲、智恵)を積まねばならない(p169)

・国衙(県庁)に仕え、特殊技能である馬術と弓矢ができる彼らこそが武士と呼ばれる存在であった、刀でもなく槍でもなく弓であった(p174)

・866年左大臣藤原冬嗣の子である良房は貴族として初めて清和天皇の摂政となった、良房の養子である基経は史上初めて関白となった、藤原氏のほかには、源・紀・大江などのライバル、藤原氏の中にも、南家・北家・式家・京家があったが、北家の嫡流である良房ー基経が権力闘争に勝った(p199)

・鎌倉幕府は三代目までは源氏将軍である、四代目以降は最後の将軍、9代目まで摂家将軍、親王将軍を迎えている(p203)

・室町時代に将軍を助ける管領は、細川・畠山・斯波の三家の当主が交代で任じられた、細川は四国、畠山は河内と紀伊、斯波は尾張を領国とする守護大名、全て足利氏の一門である(p206)

・もうひとつ主要な職は侍所の長官で、本来は全ての武士たちを統括する役割を持っていたが、室町時代には大都市京都の行政と防衛を担当していた、山名・赤松・京極・一色の当主が交代で任じられていた、足利家は一色家のみで他は足利一門でない、三管領四職と言われた(p207)

・実力重視の戦乱の時代とはいえ、やはり家柄が大事であった、大名家だけでなく家臣団そうであった。名もない素浪人を重く用いたら有力な国人領主が納得しない、彼らの協力を得られなければ大名は自滅する。才能の抜擢ができたのは、わずかに武田信玄と織田信長くらい(p215)

・江戸時代は中世に倍する国力を有していた、人々は江戸幕府が提示した理念を受けれたので社会生活は安定し、人口は増加した。その理念とは、武士・村落民・都市民(士農工商という言い方は以前のもの)の身分の固定、世襲に他ならない(p217)

・平安時代末期から鎌倉時代にかけては内親王が重要な働きをした、当時は均分相続だったので代を追うごとに資産は細切れになる、しかし独身の内親王に相続させていけば皇室の財産は目減りしない、財産の番人となった。中世以降になると皇女=未婚(寺に入り尼となる)が多くなり、結婚しても皇族である従兄弟との結婚が大半(p268)

・皇室の男性が一般の女性と交わるのは問題ない、しかし皇室の女性が一般の男性と交わるのは、聖性が侵害されることであり認められない。女系天皇が存在しなかったのはこのためでないか(p270)

・令は、天皇にふさわしい文字ではない、日本史で「令」とは、皇太子の命令を指す(p272)

・令は、家来を表す言葉である、律令にも定められている政所の正式な職員で最上位にくるのが「令」である、律令に定めがないのに政所を仕切っている役人は、別当である。正式な職である、専当に対して定めがないから別当という(p274)