suu3.jp 戻る

summary

空白の日本史 (扶桑社新書)

空白の日本史 (扶桑社新書)の写真

・平安時代から江戸時代にかけて歴代天皇が伊勢神宮を参拝したという記録は残っていない、飛鳥時代に持統天皇が参拝した後、再び明治天皇が公式に参拝するまで、約1000年の時間が空いている。神道には1000年近くの空白の期間が存在する(p4)

・日本の神話に登場する神の種類は大きく2つに分けられる、一つは、天照大神を中心とした高天原の神々「天津神」、もう一つは、出雲の大国主など天孫降臨以前から日本にいる土着の神々「国津神」(p20)

・天武天皇は近畿につながる道に3つの関をおいた、1)北陸道を抑えるため、福井県に置いた「愛発関」、2)東山道を抑える岐阜県の「不破関」、3)関東と近畿地方を結ぶ東海道には、三重県に「鈴鹿関」、この3つを総称して「三関」という)(p28)三関の東、という意味で「関東=関の東側で田舎で辺境の地」という言葉が使われ始めたのは700年位から、関西という言葉が使われるようになったのは、明治時代以降である。関の西側は自分たちの日本なのでわざわざ呼称する必要がなかったから(p29)

・陸の奥にある場所=陸奥、陸奥に隣接する「毛の国」=上野(群馬)、下野(栃木)や「越の国」=越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)であった。(p31)

・紀元前660年1月1日こそが日本建国の日となった、1回目の辛酉(かののとり)の大革命では神武天皇の即位、二回目に聖徳太子が国を作ったとして、神武天皇即位を起点とした「皇紀」が誕生した。これは太陰暦なので、太陽暦に直すと2月11日となる。明治6年(1873)を紀元節とした(p47)

・中世における日本では、どう考えても神道より仏教の方が優勢であった。天皇の息子=親王は宗教界に入る際には、仏教の道に進む。摂関家や貴族出身の僧侶がたくさんいた。仏教の道に入ってから、入道新王や法親王になった人物はごまんといるが、反対は誰もいない。(p65)

・太平記を素直に読むと、三種の神器は、北陸にある1セット、後醍醐天皇から北朝に渡された1セット、天皇が吉野に持っていった1セットの合計3セットある。北陸に渡った1セットは戦乱の中で失われてしまい不明、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に渡したのが、もともと難聴が持っていたものか、北朝から奪ったものか不明である(p77)本当の三種の神器を持っている南朝の天皇こそが正統であるという明治政府の見解が今まで引き継がれている(p78)

・神と仏の両者が手を携え、国家を守る「鎮護国家」、そして天皇の健康を守る「玉体安穏」という考え方が日本では親しまれている。他には「本地垂迹」これは、日本の有名な神様と仏様を同一視するもの。例えば、天照大神は仏の姿になると真言宗の一番偉い仏様である「大日如来」、逆に大日如来が日本に姿を表すときには天照大神の姿をとると考えられた(p87)

・秀吉がキリスト教を嫌い弾圧に踏み切ったのも、一向宗とキリスト教の教義が非常に似たスタイルであったから。阿弥陀様とキリスト、どちらも対象は違えども頭を下げる相手は現実の天下人でないので。この思想は江戸幕府にも受け継がれる(p93)

・日本から宋への往路では、材木を重石にできるが、問題は帰路。重石代わりに用いられたのが、宋銭であった(p124)

・摂関政治では、摂政や関白になれるのは「母方の親戚」である、祖父が権力を持つこともあれば叔父や伯父が権力を持つこともある。ところが平安後期になると摂関政治に代わって登場するのが院政である。院政は母方ではなく、父方の祖父、つまり天皇の祖父である先の天皇が天皇家の家父長として力を持つという形式を取る。これは婚姻形態が代わった(婿取り婚から嫁取り婚)のとほぼ同じ時期である(p208)