suu3.jp 戻る

summary

近世日本は超大国だった

近世日本は超大国だったの写真

・日本国家はこれまで4度も、それぞれの時代の超大国・大国と、ほとんど独力で真正面から戦った、世界で唯一の国家である。それも全て、歴史的な困難とも言うべきもので、いずれも祖国防衛戦争であった。戦った相手は、元帝国、清帝国、ロシア帝国、アメリカ帝国である(p57)

・劣位からスタートして優位に立つために必要なものは何か、を考えそれを獲得するために鋭意努力し、優位に立つ戦略を立案実行する、日下公人氏の唱える優位戦思考こそ、日本再生のために不可欠なマインドである(p61)

・日露戦争における日本の勝利は、二十世紀の驚天動地の出来事であった、人類進化上、白人に劣る有色人種でありしかも非キリスト教徒が、強大な白人文明国に勝率するとは神の名においてあってはならないことであった(p64)

・文明史的に重要なことは、第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本が国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案したことである。11対5で賛成多数であったが、議長役のウィルソンは重要案件は全会一致を要するとして議決の不採用を宣言した(p67)

・アメリカ本国では家畜の餌であった脱脂粉乳を恩着せがましく学校給食に供した、白人国家のドイツにはまともな食糧を支援した、さらには南北アメリカ大陸在住の日系人の寄付によるララ物質を恵んだりした(p92)

・ハイパーインフレの原因として、GHQに強要された耐え難いほどの「終戦処理費」がその主たる原因であることは意外に知られていない。この費用には、進駐軍の兵舎建設、それに必要な不動産確保、工事費・燃料の調達、労働者の人件費、各種施設の維持管理費を含んでいた(p92)この減額を要求した石原湛山は公職追放された(p93)

・郵政民営化は太平洋戦争敗戦以来の日本国最大の敗戦であり、その次の手は、日本の健康保険制度(医療制度)を破壊することにある(p102)

・アメリカの農産物には輸出補助金が65%も出ている、発展途上国の安い農産物と、アメリカの高い農産物との差額の全額をアメリカ政府が補助金として農家に配っているから成り立っている(p108)

・縄文学によれば、縄文人はあえて農業革命を拒否した、大事なのは農業革命ではなく定住革命であり、これが縄文文明を生み出した(p117)農業革命の拒否とは、余剰農産物発生の封印、階級文化の否定、専制君主も奴隷もいない平等社会を意味する。縄文時代には戦争の痕跡がないことを考古学は実証している(p118)

・農業革命の拒否から受容に転じたのは、水稲工作を受容した直接的な原因と背景は、縄文時代晩期後半からの気候変動、すなわち寒冷化の進行に伴う自然の生産力の低下であろう。加えて、朝鮮海峡を挟む活発な文物の往来である(p127)

・世界の神話の中で、主神が女性であるのは日本のみ、エジプトのラー、ギリシアのゼウス、メソポタミアのアンシャル、ゾロアスターのアフラ・マズラー、シナの天帝は皆男性である(p131)

・官中の女官により優れた文学が書かれた、源氏物語、枕草子、和泉式部日記、さらに現代中国で使われている漢語の実に7割前後は、幕末から明治時代にかけて日本で作られた和製漢語である(p137)

・1818年に津和野藩出身の国学者・大国隆正が長崎にてオランダ通訳から聞いたところでは、シナは10年で料理できるが日本は30年かかるとした、3つの障害として、1)人口が多く、武くして支那人の類にあらず、2)海岸が多く攻めにくい、3)萬古一姓の天子ありて人心これを尊ぶ心深し、があるため。大陸文化の輸入に当たっても取捨選択をしている、1)人間を去勢する宦官、2)女性の権利を無視した纒足、3)記憶力だけの受験秀才を選ぶ科挙制度、は拒否している(p140)

・無敵に見えるモンゴル軍の侵略を断固として撃退した地域3箇所、1)エジプトを本拠とするムルマーク朝スルタン、2)極東の日本、3)西ヨーロッパのドイツ(神聖ローマ帝国)(p149)

・元寇において日本の武士たちは彼らの戦法を学習し、正々堂々の一騎打ちはやめて、重装長弓騎兵が集団で突撃する戦法に切り替えている。侵略者軍団の使っていた短弓に対して武士たちの長弓は飛距離が長く有効な戦法となった(p153)

・1570年に織田信長に屈服するまでの堺は、40人近い豪商・会合衆が治める自治都市で、町は傭兵を雇い、環濠に囲まれていた。日明貿易(勘合貿易)、琉球貿易、南蛮貿易の拠点であり国際貿易都市であった(p153)

・信長の戦争革命を支えたものは、兵農分離(秀吉によりほぼ完成)による常備軍の設置、大規模部隊(槍・弓・鉄砲など)の編成、実力主義による人材登用、火器に対応する堅牢な城の建設、楽市楽座による物流の活性化など、目を見張るような改革であった(p160)

・1545年に発見されたポトシ銀山はスペイン統治時代に4万5千トンも銀を産出した、インディオを奴隷として強制労働に使い、人口が激減するとアフリカから輸入した黒人奴隷を投入、800万人の命が失われた(p171)

・フランシスコザビエルは1594年鹿児島へ上陸後に1550年、堺へ来た。そして日本はスペインの進出したアメリカと違って、ヨーロッパと同じく文明国であることを知った。従って、日本銀の獲得には、中国沿岸に基地を築き、中国の生糸・絹織物を安く買って日本商人に高く売る以外にはないことを知った。これがポルトガル人によって開拓された南蛮貿易である(p174)

・徳川幕府は、17世紀から18世紀にかけて朝鮮の李王朝と琉球王朝とを手なずけ、東アジアに日本中心の外交秩序を作ろうとしていた。貿易国オランダと中国は両国より下位に位置付けられていた。中国が軽視されたのは、明が満州族に滅ぼされ、清朝にとって代わっていたから(p176)

・士農工商という言葉は江戸時代には存在していない、インドのカースト制度やイギリスなどの階級制度とは異なり、基本的には職業による身分の区分であって、血統によるものではなく、大名・高家など一部の高級士族をのぞいて、士農工商は平等であった。実態的な身分制度は、武士・百姓・町人の3つであった。百姓とは、村に住むものを指し、農業従事者だけでなく、鍛冶屋や大工、木工職人、海運業者や漁業従事者も含んでいた。町人は、城下町に住む武士以外の様々な職業従事者である。また、この三身分相互間の移動はかなり自由であった(p182)

・江戸時代の年貢は全て村単位で上納され、年貢未納者が出た場合には、村がその分を弁済する連帯責任を負っていた、いわゆる年貢村請制である、検知は17世紀後半に終了しており、200年間不変の数値となっていた。生産性の向上、二毛作などの作付け方式の高度化、商品作物の導入など、反映されていなかったので、幕末期に近づくにつれて実際の年貢率が2割ということもあった(p183)農民が豊かであったから、お伊勢詣でや、四国八十八ヶ所巡礼、富士詣でが全国的ブームとなった(p187)

・大阪の堂島米会所は1730年に開設され、米は所有権を示す米切手で売買された、取引には現物取引の「正米取引」と先物取引の「帳合米取引」があった(p193)

・江戸時代から、近江商人は、大阪商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人と謳われてきたが、近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の商売理念こそ、世界に先駆けたCSRの思想に他ならない(p204)

・国立にあたる幕府直轄の教育、研究機関は、神田湯島にあった昌平坂学問所である、東京大学、東京師範学校(のちの東京高等師範学校⇨東京文理科大学⇨東京教育大学⇨筑波大学)、東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校⇨お茶の水女子大学)の源流となった(p208)

・全国規模の銃規制により、火器の製造・研究は封印されたが、害獣駆除用の火縄銃は「農具」として認められて武士たちよりも農民の方が多くの銃を所有していた。しかし農民が農民一揆を起こしても、けして銃は使わなかった(p213)

・パリ講和会議で人種差別撤廃が反対された理由として、過酷な植民地収奪を続けていた列強がいたから、アメリカでは西部に移民した日系人への迫害があった、フィリピンでは独立派に対する非人道的な弾圧を行なっていた。オランダはGDPの65%がインドネシアから、イギリスは30%がインドからの収奪であったと言われている(p220)

・日本は、内閣府の発表によれば平成29年末で、国民資産:1京893兆円、負債を引いた「国富=正味資産」は3384兆円であり、リーマンショック前の水準を回復した(p229)