・その時代を何と呼ぶかは、それ自体に歴史の解釈が入っている、古い順から、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と辿っていくと、一つのルールが見えてくる。それは地名に由来していること。イギリスは王朝名で時代を区分する、中国の時代区分も王朝が名乗った国号による(p32)万世一系という建前に対して実際の権力はどこにあったかというリアルな歴史認識を示している(p33)
・新井白石は、朝廷で9回、武士の世で5回の大きな変化があったと説いている、朝廷の9変は、天皇と政治の実験との距離を一つの変化の尺度としている、武士の5変(鎌倉幕府成立、承久の乱、室町幕府開設、織田豊臣政権、江戸幕府)は、朝廷から武士に政権が移ったことである(p35)
・古代の調停は、全国に国衙(今で言えば県庁)を設置し、国分寺・国分尼寺を置くなど、律令体制のもと日本全国を支配していた。しかし、古代王朝は、機内ー瀬戸内海ー博多を核とする完全な西国国家であった。東穀は日本のメンバーとは言えない状態であった。(p38)鎌倉時代とは、朝廷・鎌倉幕府・奥州平泉政権を加えた三国状態だったと考えた方が良い(p39)
・国の存亡の危機であったのは歴史上3回、1)白村江の戦い(663)、2)黒船来航(1854)。3)敗戦(1945)、これは異民族による征服が実現してしまった(p43)
・権威が通じなくなるのは、時代が変化している局面である、それまでのグループ内のフール、秩序意識(身内の論理)が通じなくなる、その典型が戦国期の天皇、この時期の天皇は在位期間の長い天皇(後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇)が続く、お金がなくて代替わりの儀式ができなかった(p49)
・ヤマト王権による支配とは地方豪族という点を結んでいく「点の支配」だったのではないか、実際に武力で制圧するのは多大なコストがかかる、大陸由来の文物とテクノロジを見せつけた上で、連合を結んでいく方が簡単である(p62)
・持統天皇は父子の直系による縦の継承を明確に打ち出した、日本で最初の元号は「大化」されるが、その後しばらくして使われなくなってします、今に続く元号の始まりは「大宝」である。(67)
・大友皇子は白村江の敗戦でダメージを受けた西国地域で軍勢を集めることが厳しかった、そこを見た大甘の王子が美濃以東の兵を集めて近江大友皇子を攻めた、初めて東から都を攻めて勝利した。この大海人皇子が即位し、天武天皇となると都を近江から飛鳥に移し、不破・鈴鹿・越前の藍発(あらた)に関所を設置し、これを「三関」とし東への守りの要とした、のちに愛発関は、近江の逢坂の関に代わる(p69)関東とは、そもそも「関の東」のことで、つまり古代においては福井から岐阜の西端を通って、三重に至るラインから東は関東であった。五機七道とは、畿内5国(大和、山城、摂津、河内、和泉)とそれ以外の地域である七道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海遠)である(p70)
・鎌倉幕府が「面」として支配していたのは、相模・武蔵・駿河・伊豆の4カ国に加え、上綜・下総・阿波・下野・上野など有力御家人たちの領地である東国が中心で、西国は源平の戦いや承久の乱の戦勝によって得た領地をまだら状に支配していた。(p85)
・摂関政治から院政への変化には、母方重視の招婿婚的世界から、家父長が強大な男系的世界へという、より根底的な変化があったと考えられる(p110)
・太宰府は、九州九カ国を統括する組織であり、太宰大弐が地方官として頂点である、当時の経済における大動脈の瀬戸内海を抑えることになった(p115)
・平清盛、源頼朝、「の」が入る。この時の「平」「源」は名字でなく「氏」である。ヤマト王権では5−6世紀にかけて、氏姓制度を導入した。豪族たちに「氏」と「姓(かばね)」を与え、身分の序列化を図った。「氏」は同じ血族をグループとしてまとめるもの、「姓」は、臣、連など朝廷内での身分を表す称号。氏は天皇が与えた一族の名称で、血筋に基づいて世襲していくので、一族の呼称は平氏、源氏氏となるので、源頼朝は、源氏の頼朝なので「みなもとのよりとも」となる。鎌倉時代になると、「の」がつかない「苗字」が登場する、頼朝の妻である北条政子は「の」が入らない、つまり「北条」は「氏」ではなく、家を表す「苗字」だということになる。(p163)平安後期から鎌倉になると、源・平だけでは家の区別がつきにくくなるので、「氏」としては平氏でありながらも、財産=土地なので、家を呼ぶ苗字として地名が使われるようになる。千葉氏、三浦氏など(p163)
・足利政権には、二つのグループがあった、尊氏派と直義派である、尊氏派は、管領である細川氏を中心に、赤松・京極・一色、直義派は、三管領家の、斯波氏をはじめ、山名・大内・土岐氏であった。両者の対立は、そのまま尊氏と直義の対立を継承していた、尊氏が朝廷融和派、直義は、朝廷分離派であった(p181)