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summary

喧嘩の日本史 (幻冬舎新書)

喧嘩の日本史 (幻冬舎新書)の写真

・平治の乱は、源氏と平氏の直接的な対決というよりも、代理戦争に過ぎない。後白河上皇と信西一派(平氏方)と藤原信頼(源義朝)一派の権力争いのための、それぞれの重要な武力として用いられただけで、源氏と兵士がライバル同士というわけでない。(p27)

・治承・寿水の乱は、源氏と平氏の喧嘩などではなく、調停を中心とする中央政権と、朝廷の影響力から脱したい在地の武士たちの戦い、言い換えれば中央対地方のケンカだった(p33)源頼朝は自覚していたので、東国武士が頼朝を担いだ、反対に木曾義仲は上洛の誘惑に負けて平氏の軍勢を打ち破ったのちに、京都まで軍勢を進めてしまって、後白河上皇と対立を深めて、頼朝に吉中追討の命令が下った(p35)

源義経の最大の誤算は、後白河上皇から頼朝追討の宣旨が降りて大義名分を得たにもかかわらず、彼の挙兵に呼応するものが全く現れなかった(p43)

・頼朝の優れた点は、武士たちの真意を見抜いて、朝廷や西国と一定の距離を取り、東国で力を蓄えたところにある。平氏も、木曾義仲も朝廷に近づき過ぎて墓穴を掘った(p47)

・鎌倉時代の13人の合議制は、北条派と反北条派に二分される、将軍家の権力を無力化させようとする北条時政の思惑から合議制は生まれ、逆に頼家の外戚として力を振る舞いたい比企能院は、自分の息のかかった人間を合議制に入れることで、北条氏の専横に待ったをかけようとした(p62)

・北条泰時は、武士が中心の鎌倉幕府においても、武力だけではく法の支配も需要になると考えて、御成敗式目を制定した、これば鎌倉幕府が150年ほど存続したことに寄与した(p80)

・源平の戦いでは、平家を滅ぼした源頼朝は、平家が全国に持っていた500もの所領を全て鎌倉幕府のものにした、これが幕府の財政基盤となった。承久の乱においては、長鯨に加担した、貴族・寺社・武士の所領が全国に3000箇所あり、全て幕府が没収することができがが、元寇においてはそれがなかった(p94)

・時致の跡を継いで9代執権となった、北条貞時によって制定された「英人の徳性令」は、御家人が自分の土地を御家人でない人間に譲った際、後からその土地を無償で返却してもらえるというもの、御家人間同士でも、売買から20年経過していれば返してもらえた。御家人でない人間に土地を売った場合には、20年間は適用されず無条件で取り返すことができた。これは、御家人ファースト、であり、鎌倉幕府が終わるまで有効な法律であった(p101)これに対して、その法律を取り消すことを要求したのが「悪党=反社会的な人々」とみなされた(p101)

・源氏一門でトップは、平賀氏であったが、北条氏によって潰された、鎌倉幕府を打倒した時、源氏一門のトップであ李、幕府内では北条氏に次ぐ地位にあった、足利氏が反旗を翻したので、初めて御家人たちが動いた(p109)

・足利尊氏は、弟である直義の主張(鎌倉に止まる)とは逆に京都へ進軍した、これは尊氏と直義の国家間の違いであった。尊氏は、武士政権が京都へ進出することを考え、直義は、鎌倉幕府以来の「武士政権は東国に、貴族の朝廷は京都に」という点にこだわった(p117)尊氏は土地以外に、物資の流通網に対して税をかけている、つまり経済活動に対する課税である。国外から宋銭が大量に輸入するようになり、貨幣経済が根付いていたのが、鎌倉幕府設立時との違いである(p119)

・細川頼之は山名氏を討った後、足利義満が室町王権を作り上げていった、その仕上げが南北朝の統一である。南朝の後亀山天皇に、持明院統と大覚寺統が交互に天皇になる両統更迭立などの条件を提示し、これを受託させると、三種の神器を後小松天皇に譲渡し、南朝は終焉を迎えた。その後に、両統迭立は守られず、北朝の系統だけが続いていく(p138)

・応仁の乱は、教科書的には、管領の畠山氏、斯波氏の家督争いと、足利将軍家の家督争いに、細川勝元と山名宗全が介入したことで引き起こされたとされるが、本質は、足利義満の時代における勝ち組である細川氏(とその一族である、赤松氏、京極氏)が東軍に、負け組である山名氏(とその一派である大内氏、土岐氏)が西軍となって時代を超えて幕府の主導権をめぐり対立したと、筆者は考える(p144)

・侍所の長官にあたる所司になれるのが、赤松氏・一色氏・山名氏・京極氏・土岐氏、土岐氏が途中で外されて、4家となったので「4職」と呼ぶ(p148)

・明徳3(1393)年の時点で、足利義満は、関東(鎌倉公方がすでに設置)だけでなく東北も切り離しを行う、これに九種探題が置かれた九州も幕府の直轄統治の対象外となった(p155)

・鎌倉は守りにくいことが新田義貞の攻撃(集団戦に変わっていたので)により明らかになっていたので、足利政和は鎌倉ではなく堀越にとどまり、これが堀越公方となる。ここは北条氏のかつての故郷なので、それなりに整備された土地柄であった、北条公方と言った方がピンとくる。足利持氏の遺児である足利成氏は、下総の古河に本拠を置き、これが古河公方となる(p163)

・本能寺の変は色々と説があるが、歴史学説でかろうじて成り立つのは、四国説である(p198)

・赤穂事件(忠臣蔵)で特異なのは、日本で行われ初めての家臣による主君の仇討ちであった、親の仇討ちは届出をすれば認められていた(p231)