・姫巫女とは神を祀る女性であり「神の嫁」であるため、当然未婚が求められる。いわば神の言葉を人々に届けるシャーマン的な存在であった。当時(卑弥呼の時代)政治的な実権を握ったのは卑弥呼の弟であったと考えられ、卑弥呼自身はいわば宗教的・精神的な権威として君臨していた(p27)
・前方後円墳の誕生は、異なる勢力が一つになったことで生まれたものではなかったと示唆される、その結果瞬く間にこの前方後円墳の形式が全国に広まっていった、戦争によって他地域を屈服させたというより、平和的に広まっていったと考えられている。ヤマト政権とは、この列島各地の様々な勢力が連合して生まれた連合統一王朝だったと考えられる(p51)
・女性が自分の本当の名前を教えるということは、やはり重大なことであった、名前を教えるということは、自分の最も大切な秘密を教えることであるから、自然と名前を尋ねることが求愛の印であり、本当の名前を教えることが相手を恋愛対象として受け入れることであった(p55)
・古代日本には多くの女性天皇が即位した、中でも特に重要な仕事をしたのが天智天皇の娘で、天武天皇の皇后でもあった持統天皇であった(p41)急逝した草壁皇子の息子(軽皇子という嫡男)が十分な年齢に達するまで持統天皇として即位した、中国に倣って親から子へと受け継がれる長子相続を古代日本に導入しようとした(p42)この頃には、全国に武蔵国、駿河国といった行政区としての国が置かれ、律令が制定されて「日本」という国号が生まれた(p43)
・持統天皇以降、女性天皇が集中的に現れるが、いずれも天智系の皇統を守るための中継ぎの役割を果たしていた。長子相続の「タテの継承」を継続維持するために古代において女性天皇が登場した(p46)女性の系統で天皇の位が継承されることはあり得なかった(p46)
・中心地で生まれた新しい語形が、周辺へと伝播した結果、古い語形ほど外に、新しい語形ほど内に分布する(p54)
・源氏物語の中心、あるいは当時の女流文学の中心は財政とか経営でなく、恋愛にあった。貴族たちが栄華を誇り、戦乱のない平和な時代だったからこそ貴族の女性たちはそれだけ自由度が高かった、恋愛における自由が認められていたという点が女流文学が興隆したり理由としては重きをなす(p69)
・当時(紫式部の時代)の貴族が勉強しなければならない学問として、1)紀伝道(文章道):中国の歴史や古典を読んで学ぶ、2)明法道:朝廷が定めた律令を学ぶ、3)明経道:論語、孝経などの経書を読み、中国の哲学や文学を学ぶ、4)算道:計算、算数などの算法(p99)
・紹婚婚は男性が女性の元へ通い、かつ女性の側が決定権を持つ、その基本には和歌を贈り合うというコミュニケーションがものを言う世界であった、しかし母方が大きな実権を握る形態はこれを基礎にした摂関政治が終わり、父方の権力を中心とした院政が始まるとともになくなっていく(p107)
・乙巳の変に始まる一連の大化の改革で、後の天智天皇である中大兄皇子とともに功績をあげた中臣鎌足が始祖ということになる。奈良時代には、中臣鎌足こと藤原鎌足の子、藤原不比等が台頭し、さらにその子達である藤原4兄弟を祖とする、南家・北家・式家・京家が並び立つ、平安時代になると、北家の勢力が増す(p111)
・色彩と同時に重視されたのは、香りや匂いである、これには体の匂いを紛らわせる効能が期待されていた考えられる、お香の基本として「甘・酸・辛・苦・馘」の5味が言われるが、現代の香水に当たるような華やかで甘い匂いというものはない、いずれも渋い、沈み込む様な香りであり、消臭剤としての使い方だったと思われる(p127)
・中世において、男女の恋愛とは別に、日本は世界的に見ても男性同士の関係、つまり、男色に対して非常に寛容な社会であった、西洋ではキリスト教、イスラム教など、一神教の性規範が強い国々では、男色は強くタブー視されている(p161)
・血よりも家を重視する日本社会特有の価値観があったので、家を存続させるならば養子でもよい(p163)
・江戸時代になると女性の地位がはっきりと低下していく、一般庶民はともかく支配階層である武家社会となると、女性の自由は明らかに制限されて家に縛られる様になる(p202)
・伊勢神宮は外宮と内宮の両方を参拝して伊勢参りとなる、最初は外宮にいき参拝をする、そしてその日のうちに行かず宇治山田(五大遊郭の1つ古市がある)で一泊する。現在の伊勢神宮は格式を重んじて、私たち庶民のお賽銭は受け付けていない(p208)
2023年8月11日読了