・江戸時代において日本経済は飛躍的に発展していた、明治維新は政治体制の変化という点では画期的な出来事かもしれないが、経済の発展のという点から見れば、江戸時代の延長でしかない。維新の成功は「江戸の蓄積」(p22)
・ファシズムの定義は、国家の上に政党や宗教があること。憲法を停止して全ての権力をヒトラーに集中させたドイツと日本は違う(p35)
・景気が悪くなると、普段は見向きもされない危険な思想に人々は救済を求める(p38)
・19世紀後半から発生する恐慌の原因は、金本位制によるデフレにあった、金本位制に固執した理由は、それ以前の決済システムに比べて圧倒的な利便性の高さにある(p39)
・江戸時代の問題は、生産性の向上がもたらす経済規模の拡大に合わせて十分な貨幣量を供給していたかという点にある(p40)
・江戸時代のポイント、1)400万石の徳川家が3000万石の日本を治めなければならない財政構造、2)貨幣通貨制度(藩札も流通)、3)百姓は農民に非ず、百姓は多くの非農業民を含む(p45)
・経済の3つのインフラ、1)物流の自由、2)決済手段の確保、3)商取引のルール整備、これらが確保されるとその国の経済は発展する(p54)
・家康の天下統一は、秀吉の場合と異なり、全国の300諸侯が徳川家に忠誠を誓って中央集権国家が成立したわけではない。中央集権的な政治の仕組みを強化する「石田三成」と、それを否定する「現状維持でいい」と考える勢力の戦いの結果(p58)
・家康は年貢だけに頼れない(400万石で3000万石を賄う)ので、全国のめぼしい金山、銀山をすべて手中に収めた。3000万石の財政政策をすべて引き受けることになる(p60、66)
・徳川三代の浪費は、日本経済の発展を考えると極めて大きなプラスの効果がある。浪費のための資金は、大量の貨幣を発行して大規模な公共事業を行ったことと同じ(p62、63)
・五代将軍(綱吉)の時代の発明により、その後の200年間を乗り切ったが、それは「通貨発行益」である(p71)
・萩原重秀が「品位の悪い貨幣」を作ったのは、評判が良くないが、実は生産量の増大に合わせて貨幣量を増やし、モノとお金のバランスを取るという点では極めて正しい政策であった。お金を貯めこんでいた大商人は貨幣価値の目減りを恐れて貯蓄を減らして投資に回したので元禄時代は好況となった(p73、76)
・萩原重秀を失脚して、一時的に権力の座についた新井白石は、小判の金含有量を高める「逆鋳造」を行ったために、激しいデフレと景気の低迷を招いた(p84)
・多種多様な地酒があるのは、吉宗の酒造業奨励による、コメの消費を増やすという政策のおかげ(p88)
・江戸時代は、物価の高騰よりも、幕府内の権力闘争により、老中の構成が変わることで、「リフレから緊縮」、またその逆、と何度も経済政策が転換されたことが真の問題であった(p91)
・幕府との顔つなぎのために自ら進んで、妻子を江戸に住まわせて、自身も積極的に参勤した(p110)
・家光が改正した「武家諸法度(寛永令)」には、参勤交代のお供の数を減らしなさい、と書いてある(p111)
・金銀の採掘は貨幣発行と同じ意味を持っている。絹と金銀の交換は、現代的な意味でいう、繊維製品と鉱物資源の交換ではないというところが大きなポイント(p120)
・鎖国により、資本取引の自由が制限されたので、金融政策の自由(=貨幣を自由に発行、インフレ率を制御)を手に入れた、固定相場制は堅持したまま(p123)
・田畑の担保価値が認められるのは、4代家綱以降のこと。それ以前は生産性が低く、年貢と自家消費で作物が無くなり、人的担保しか取れなかった(p129)
・カリスマ経営者の三井高利は、大名貸が極めてリスキーであると見抜いて、1673年アパレル業界に進出、これが越後屋(p130)
・三井高利の新機軸の商法とは、「店前売り」「現金掛値なし=定価制」、現金売りのため、資金回転が早まった。更に切り売り(当時は一反から)を行った(p140)
・東回り航路とは、江戸から荒浜(宮城県)に至る航路で、江戸の東から北に位置する、徳川家の領地と江戸を結ぶルート(p147)
・天明の飢饉が100万人の人口減少を招いたのは、流通網の整備と、コメ取引の活発化がある。米を都会に運んで高く売った(p151)
・幕府は、中央政府でありながら、諸藩から米を取り上げて被災地に送る権限は持っていなった(p153)
・天明の飢饉において、菱垣廻船の配下にあった、地方廻船問屋は、独自に江戸まで輸送して莫大な利益を得た。飢饉で食糧不足になっているので、幕府もルール破りを黙認せざるを得なかった。(p154)
・農民の妻のイメージは今でいう「専業主婦」だが、実際には夫が農業に従事する傍ら、妻は家内制手工業を営むといった形が一般的、夫は米以外にも、市場で高く売れるコメ以外の商品作物を栽培していた(p157)
・知多半島、尾州廻船の創業者である内田氏は、三河地方で生産される、酒・味噌・醤油・みりん・酢等の原料となる、大豆・塩を運んで巨万の富を築いた(p160)
・幕府は、徴税システムの欠陥、経済の質的な変化、という二重苦と戦わなければならなかった。これを克服するには、税金の取り方を変える必要があった。それが明治時代に行われた、地租改正である。課税基準は、収穫高ではなく地価の3%。大東亜戦争後に地租は、固定資産税に変わった。現在その税率は、1.4%だが、住宅用地は特例で6分の1(p185)
・マクロ経済の恒等式:(貯蓄-投資)+(税収-財政支出)=輸出-輸入(純輸出)(p187)
・幕府が金の保有残高を重視していたので、大抵の藩札は銀札(銀との兌換を保証する紙幣)、幕府との対立を避けるため。藩札の発行は西日本が中心(p191)
・1700年代中頃には、金貨、銀貨の取引は幕府直轄の大都市だけで、地方の諸藩における日常的な決済手段は殆ど藩札になっていた。慢性的な貨幣不測のため(p191)
・藩札は領内限定の紙幣なので、領民が旅行や仕入れなどで藩外に行くときには、共通通貨である金銀銭などに両替した。私達が外国へ行く感覚(p192)
・藩札は、金銀銭や米などまで裏付け資産にしていた分、よほど複雑であった(p193)
・藩札は廃藩置県当時の発行残高は、約9000万両、幕末の金銀貨の発行残高は、1億3000万両(p194)
・長州藩と薩摩藩は、グットカンパニーは藩主の個人のお財布として、バットカンパニーは藩の公的なお財布として、会社分割を行った。誰にも気づかれないように。借金のリスケジュールと、緊縮財政は藩の財布、殖産産業の儲けは藩主個人の財布に入れるというやり方(p203)
・金の大量流出の過程で、超過需要の発生による金価格が上昇、洋銀流入により銀価格が低下することで、品位が劣る万延小判を鋳造することで初めて、金銀比価を国際基準に近づけることができて、金の流出が抑制された(p227)
・銀価格が低下したので、銀貨に刻印することで通貨発行益を得ていた幕府は財政難、長州藩が大量の藩札を発行してもその価値が下落しなかったのは、ここにあった(’p232)
・薩長同盟では、武器の購入が禁止されていた長州藩の代わりに薩摩藩が購入、それと兵糧米を提供するという取引だが、一番大きな成果は、第二次長州征伐において薩摩が幕府の出兵要請を拒否した点にある(p240)
・明治時代は、江戸時代に作られた生産システムや、流通システムが稼働していて、近代的な仕組みに代られるのは、大正時代以降(p247)
・資本取引が自由化され、固定相場制が続いたので、必然的に金融政策の自由が失われた。幕末の激しいインフレはまさに幕府が金融政策の自由を失ってしまったことにより発生した(p250)
・1871年の新貨幣条例では、金1.5グラムを含有した金貨を1円硬貨とした。(p261)
・廃藩置県が実施される1871年までは、藩、年貢、藩札も存在していた。年貢が地租になるのは、廃藩置県から2年後の1873年(p263)
・新政府は、各藩が負っていた借金を3分類した、1)1843年以前:1200万両、2)1867年以前:1100万両、3)明治以降:1300万両、そして1)の旧債は破棄、残りの中債と新債を引き受けた(p268)