・家康は関が原の戦いに勝った後も、豊臣家の大老という立場でしか戦後処理ができなかった、征夷大将軍になっても1611年に秀頼に臣下の礼をとらせるまでは表向きは家康は豊臣家の家臣であった(p9)
・大阪城には、夏の陣後にも、焼け跡から金:2万8千枚、銀:2万4千枚が発見され、豊臣家の経済力は凄かった(p10)
・秀頼が成長して朝廷から徳川家討伐の勅命を受けた場合、家康は朝廷と主君という合体した権威には立ち向かうことはできなかった(p11)
・鳥居元忠(兵1800)は秀吉が築いた伏見城で、西軍4万の兵を相手に10日間耐え抜いて玉砕した、元忠は関が原の戦いの勲功第一とされた(p23)
・大阪夏の陣において天皇は何度も和議をすすめたが、家康はこれを無視して豊臣家を滅ぼした、朝廷と豊臣家のつながりの強さに危機感・嫌悪感を抱いていたから(p109)
・豊臣家は秀吉のころから、硝石・生糸を輸入するためにスペインと友好関係を持っていた、家康が島津家久が琉球攻略を容認したのは、フィリピン拠点とするスペインの進攻に備えた可能性あり、家康がスペインと敵対しているオランダをオランダを優遇したのは、スペインの影響力を弱めるため(p110)
・家康は西国大名に城の工事を命じたが、戦いの最前線となる「三の丸」の工事にはタッチさせなかった(p142)
・豊臣家の力を弱めるために家康が着手しようとしたことは、1)豊臣家を他国へ転封し、大阪商人との関係を絶って経済力を弱める、2)キリシタン勢力、スペインとの関係を弱める、である(p149)
・東国と畿内の政争がおこった場合、かならず合戦の舞台となる重要な地は、関が原・亀山である、関が原は、壬申の乱・南北朝の戦い(北畠vs室町幕府軍)・関が原の戦いがある、亀山は、賤ヶ岳の戦いや関が原の戦いでも重要な地点となっている(p160)
・関が原の戦いは、秀吉の死後において、豊臣政権の中央集権策(年貢・人員の収奪、農民の逃散)を維持しつづけるか、諸大名に権限委譲して地方分権するかの是非をめぐって引き起こされたものと考えられる(p195)