・享保年間の江戸の人口は100万人を超えていた、それらの排泄物を江戸周辺の農村で肥料として利用したので、江戸のリサイクルと絶賛される(p24)
・髪結いは、町の治安維持の役割を担っていた、旅行者は旅行手形(旦那寺が発行)を提示しなければ旅先で髪結いができなかった(p26)
・文政年間(1818-30)の1文=47.6円と試算される、棟割長屋の家賃(300文)は1.4万円、表店は9.5~19万円相当になったので住んでいる階級が異なった(p29)
・享保年間まで、人口における男女比は、男3に対して女1であった(p32)長屋の子供は、複数の父親みたいな親切なおじさんに可愛がられて育つ、それは紋散らし(父親不確定)のためである(p35)
・吉原の太夫(最上位)と床入りするには、最低3回は必要で、合計90~120両(2700万~3600万円)かかった(p37)
・江戸の治安維持のため、町と町人を代表して、三人の町役人:町年寄(奈良屋、樽屋、喜多村家)が町奉行との間にたって江戸の行政を仕切っていた(p47)町年寄は将軍にお目見えできるので、御家人より地位が高く、譜代大名と敷居を挟んで隣り合わせの位置に座れるので、外様大名より高かった(p48)
・商家の婿は、江戸のエリートであり公職でもあった、三井・高島屋・住友が数百年の歴史を誇れるのは、エリート婿のおかげ(p58)武家は男子相続、養子も同族求めたが、商家はそれと対極にある女系相続であった、婿の地位が低くなったのは、男尊女卑が徹底した明治時代から(p61)
・大工の日当は、銀4匁二分に弁当代(1匁二分)、銀一匁=40
00円とすると、2万円の日当である(p72)
・人や動物を殺す、人や動物が死ぬということをなんとも思わない風潮をとめたのが、「生類憐れみの令」である(p78)
・江戸城で座布団を敷くことができたのは、将軍と御三家のみ、老中でも許されなかった、座布団のかわりに、畳の下に柔らかいパンヤ(綿のクッション)が詰めてあったのみ(p82)
・普通に刀を使っていたら、歯こぼれと血糊で、4人も切れば役に立たなくなる(p96)
・江戸の町は、武家地は、麹町・御徒町というように「マチ」を使い、町人地は、馬喰町・大伝馬町のように「チョウ」を使った(p108)
・一人扶持とは米五合のこと、三両一人扶持とは、年間三両(90万円)、一日二食分(五合)の米支給という意味(p116)
・町奉行所は犯罪を受理すると、与力は同心に仕事を投げて、同心は手下に仕事を丸投げする、町奉行所の与力・同心はすべての大名家、大店に出入りしていたので、付届けとして、与力で二千両(6億円)、同心でもその半額はあった(p121)
・将軍に「面を上げぃ」と言われても、一度は「はっ」と答えて顔は伏せたまま、将軍の威力の前で体がいうことをきかないということを表現、二度目で、胸あたり視線をやるのが礼儀(p127)
・松平定信、水野忠邦は大奥の協力が得られなかったので、二人とも失脚した(p131)
・幕府の年貢は基本的に米を中心にしているので、農民は税金を軽くするために、税金を逃れられる作物・商品作りに精を出した、従って江戸後期の天領での年貢率は二公八民であった(p141)
・婦人が編み笠を被り、手ぬぐいでほっ被りをするのは、祖先の霊がとりついていること意味するので、武士は厳禁とされた(p160)
・豊臣、徳川初期において、日本人口が1200~1400万人において、キリスト教徒は300万人と推定された(p174)