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その時歴史が動いた (1)

その時歴史が動いた (1)の写真

運命の一瞬、東郷ターン/日本海海戦の真実
・連合艦隊の司令長官に東郷が選ばれたのは、「運が良い」と判断されたから(p35)

・日本海海戦の丁字戦法は、日本古来の水軍の戦法がヒントになっている、攻撃のポイントは、敵の最も大切なところへ攻撃を集中していく点(p38)

・命中率を高めるために(通常は3%)艦隊が横一列になって、全部の砲門を先頭艦に向ける、総合すると確率はもっと高くなる(p44)

・東郷司令官は、最後の会議にて、密封命令(津軽海峡へ移動すべし)を開けるのを24時間延期するという決断を行った(p51)

・戦艦8隻を含む27隻が沈没または降伏、バルチック艦隊で逃げ延びたのは3隻のみ(p57)

世紀の対決、沢村対ベーブ・ルース/日本プロ野球誕生の時

・ベーブルースは元々はピッチャーで、レッドソックス時代はワールドシリーズで29イニングス連続無失点の記録を持っていた(p7、113)

・1961年に作られた61本塁打の記録は、1998年にマグワイヤによって70本塁打により塗り替えられた、同年にサミー・ソーサは66本塁打(p94)

・沢村はたびたび兵役についたため、巨人軍での実労は5年、105試合登板、62勝22敗、防御率1.71であった(p106)

天下分け目の天王山/秀吉・必勝の人心掌握術

・山崎の合戦において、光秀1.3万に対して秀吉方は2.8万(直属軍8000に対して援軍が2万)、光秀は援軍が殆ど得られなかったのが敗因(p119)

・秀吉が中国大返しが出来たポイントは、1)情報戦略、2)的確なスローガン、である(p126)光秀は「中世的な大義名分」を唱えたのに対して、秀吉は「わかり易い信長の仇討ち」を口にした(p130)

・光秀は朝廷に銀500枚を献上して京都の守護職に任じられた、その名の下に長浜・佐和山城を攻め落として、そこに室町時代の古い領主を呼び戻した、これは信長配下の武将達には評判が悪かった、光秀にとっての優先順位は、朝廷、室町幕府であった(p133)

・光秀は最も自分に近いはずの、細川藤孝と筒井順慶の援軍を得ることができず、見込んでいた1万の兵を失った(p134)

・勝利を目前にした時に、秀吉は織田信孝(3男)と丹羽長秀を待って、信孝を総大将に据えた(p146)

幕末のプリンセス、日本を救う/皇女和宮の悲願

・幕府は失地を回復するために(桜田門外の変等)天皇の権威にすがることを思いついた、朝廷もなんとか発言力を高めたいと思っていて、これが公武合体の原動力(p167)

・1868年1月3日に京都鳥羽伏見で幕府と薩長連合軍が衝突、幕府軍が負けた後に、朝廷は薩長軍を官軍、幕府を朝敵とした、1月5日に京都を出発して戊辰戦争の始まりとなる(p186)

・1868年4月11日に江戸城が無血開城となり、元号は明治、江戸は東京となった(p192)

新撰組参上!/池田屋事件に賭けた若者たち

・近藤らは最初は浪士隊に応募したが、それを組織した清川が尊攘派に加担したので、京都に残って京都守護職下に属した(p214)

・新徴組という江戸市中警護の集団は、幕閣の若年寄配下にあり、隊士たちは、3人扶持25両の役料と伊賀者次席の格式を得ていた、それに対して新撰組は、京都市中警護の小隊統括という扱いで、役料も30両のみで身分は浪人のまま(p226)

・池田屋事件で手柄を立てた新撰組は、武士の身分に取り立てられ、近藤は旗本、土方、永倉は御家人として正式に武士の身分となった(p243)