・幕末は譜代筆頭の彦根藩、親藩の福井や尾張までが官軍の戦闘に立った(p30)
・源頼朝は平家のようにに京を乗っ取るのではなく、関東を京都と並ぶ権力中枢にしようとした、これを期に、日本は朝廷・公家の国と、武家の国の二重構造になった(p37)
・徳川幕府の人事で印象的なのは、石高が多い大名には権力を与えないこと、御三家の国政への口出しは許されなかった、将軍の近親者も権力から排除、吉宗の孫である松平定信は例外(p42)
・秀吉の天下統一後に、家康が関東移封を嬉々として受け入れたのは、先祖代々の土地から離れるのを嫌がっている家来がいるにも拘らず、徳川が自立するために必要と考えたから(p43)
・高度経済成長期時代の社長や部長の給料は意外と低かったが、接待を受けること、接待費を使うことには寛容であった(p46)
・江戸時代の武士は末期を別にすれば、本格的な教育を受けていない、19世紀になって文章能力だけは向上したが、地理歴史や科学的な知識はなかった(p63)
・江戸時代の日本全体の石高は3000万石、そのうち2250万石が300藩の領地、400万石が天領(直轄地:大坂、京都、長崎、堺、奈良、大津等)と、300万石が旗本領、50万石が朝廷や寺社領(p66)
・小選挙区と同等の15万石は、米沢、松山、高田(上越)、姫路、小倉であり、それ以上のものは28しかない、1万石は農村部の小学校2学区程度(p67)
・1868年に明治新政府が旧幕領に、府・県を設置したのに対して、旧大名領に藩の呼称を用いたのが公称のはじまり、それは廃藩置県の1871年まで使われた(p69)
・大名の殆が愛知県人を始めとする東海人で75%程度、土着の大名として幕末まで続いたのは、島津・大村・松浦・鍋島・大関・大田原・相馬・南部・津軽・松前の10氏のみ(p77)
・150石もあれば「上士」とよばれる高級武士で、侍大将として立派は前立てがついた兜をかぶり、旗指物を許されて家来も持てる身分である(p83)
・1869年の版籍奉還とともに、旧公卿と旧藩主が華族、旧幕臣、藩士、神官等が士族とされた、士族の下層(足軽等)を卒族としたが、反対運動もあり72年に世襲の者は士族、一代限りは平民となった、士族は189万人で1873年の人口(3360万人)の5.6%(p91)
・城も含めてそれなりの風情が残っているのは、彦根・弘前・松江である(p96)
・50石の武士の年収(税引後)は、四公六民であると取り分は20石、一両=1石(150キロ:5万円)とすると、年収は100万円程度、諸物価を基準にすると1両=6000文=15万円とすると、300万円、庶民の賃金から考えると、600万円という考え方もできる(p104)
・江戸時代の平均寿命は30歳台、これは乳幼児の死亡も含むので、長生きすると平均的には50歳前後であり、70歳を越えることも珍しくなかった(p132)
・2年ごとに閏月があり、ある年は1年=380日、ない年は350日である、天保元年の大小暦では、小の月が1,2,5,6,9月、大の月が3(閏3月あり)4,7,8,10,11,12月である(p136)
・水引の色は、吉事には金銀、紅白を用いて、凶事には白、青白、黒白、黄白、を使う、帯紙は、赤・紅・金は吉、銀・紺は凶、水引の本数は、奇数(5,7)が祝い事、凶事には偶数(2,4)であった(p211)
2010/10/3作成