・江戸は当時の日本の平均像からはほど遠い、中くらいの藩の、それほど志が高いわけでもないが、かといって極端な不心得者でもない貧乏侍こそが武士の実像を語るにふさわしい(p16)
・武士は事あるときに備えるのが本分であるから、平時は暇なのが当たり前、戦いがないのでお役目としては、日常の普請の監督のようなことをしている、仕事で登城するのは月に数回、その時は朝の6時に起きて身繕いをする(p26)
・戊辰戦争で本当に戦って大量の戦死者を出した藩は少数派、江戸300藩のほとんどは、ずばり日和見であった(p31)
・源頼朝は、平家のように京を乗っ取るのではなく、武家の国としての「関東」を「京都」と並ぶ権力中枢としようと解釈すべき(p40)
・信長、秀吉、家康がユニークだったのは、武士たちを企業に忠実なサラリーマンにしてしまったこと、領地を与えるという形は残ったが、簡単によそに移されるし世襲も保証されなかった。終身雇用制・フルタイム兼業禁止・社宅住まいのサラリーマン社会であった(p43)
・年貢はその年の作柄を見て決める検見法から、定免法に変わった。これにより租税負担率の逓減を招いた(p49)
・寺子屋が激増したのは、天保(1830以降)であり、内容も読み書き算盤程度で、多くは小学生低学年レベル(p58)
・子供たちは、四書五経(大学・論語・孟子・中庸、易経・書経・詩経・礼記・春秋)の素読ができるようになる、これは武士階級の男性のみが訓練されていたので、町人や女性に差を付けられた(p64)
・江戸時代の日本全体の石高は3000万石、1/4(750)のうち400万石は、大阪・京都・長崎・堺・奈良・大津等を含んでいた、300万石が旗本、50万石が朝廷と寺社領(p72)
・大名の奥方と世子は江戸住まいが強制されていた、母が正室だと100%江戸生まれ、側室だと半々だが世子になったとたん江戸に引っ越す必要がある(p78)
・殿様はほとんどが愛知県人、上士たちも殿様の故郷の出身者や縁者ばかり(p83)
・150石もあれば「上士」(藩主と口がきける)と呼ばれる高級武士、侍大将として立派な前立てがついた兜を被り、旗指物を許され、家来らしき者も持てる(p88)
・下級武士はどんなに功績があっても、どんなに才能があっても、上級士族に昇進することを許されなかった(p94)
・1873年の日本の人口:3360万人に対して、士族の総数は41万戸、189万人で、5.6%程度(p97)
・現代において、城も含めてそれなりの風情が残っているのは、彦根・弘前・松江である(p106)
・武士の年棒は石高で示される、仮に50石の場合、年貢が4公6民なので、年収は20両(1両=6000文=30升分の日本酒=15万円)である(p109)
・元服(15歳)以降は、親の年齢にもよるが、相続か結婚となる、親は50歳あたりで隠居を考える(p138)
・元禄期を過ぎて刀鍛冶は急速に衰退したが、それと反比例して、鍔(つば)の工芸品としての価値はますます高まった(p188)
・刀は武士の象徴だが、表芸としては、このほかに、弓・馬・槍があり、武芸四門という。100石以上は槍持ちと草履取り、200石以上になると、それに馬と馬子、供侍に挟箱持ちが加わる、500石以上から立弓が加わり武芸四門に通じたお武家さまとなる(p194)