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summary

知らなかった!都道府県名の由来

知らなかった!都道府県名の由来の写真

・現在の長野県の人びとの意識の根底をしばっているのは、長野県と筑摩県(松本が中心)の図式である(p18)

・県庁所在地を決めるに当たっての基本条件として、1)地理的に見てなるべく中央、2)石高や人口が多い中心的な場所、である(p23)

・県という名称は、戊辰戦争以後に使用している、旧幕府領の主要地を「府」、その他を「県」と呼んでいた(p24)

・最初に置かれた10府は、江戸・京都・大阪・度会(三重)・甲斐・越後・箱館・長崎・神奈川・奈良府がおかれた(p25)

・明治新政府は、帝国大学を各地に設置するとともに、それへの予備の高等教育機関として、旧制高等学校を全国各地に設置した、東京・仙台・京都・金沢・熊本・岡山・鹿児島・名古屋(八高)・その後に、長野・新潟・愛媛・山口が名乗りを上げたが、長野の代わりに松本に決定した(p36)

・官軍は奥州越列藩同盟から、まず、久保田藩(秋田)、弘前藩(津軽)を脱退させることに成功、この時から津軽と南部との対立は深刻になった(p46)

・明治新政府は明治元年12月に、陸奥国を、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割した(p48)

・新政府が盛岡県という名前を許可しなかったのは、盛岡藩が朝敵に回ったから(p51)

・仙台藩が降服したのは明治元年9月11日、62万石は没収され、石高は28万石へ、盛岡藩(南部氏)は20から13万石に減知された(p55)

・秋田藩の廃藩置県がスムースにいったのは、抱えていた債務を新政府が肩代わりしたから(p67)

・高崎藩(8万石)、前橋藩(15万石)はそれほど差がなく、距離的にも近かったので、高崎と前橋を含む旧来の「群馬郡」の名前をとって群馬県とした(p74)

・千葉県は3つの旧国が集まってできたが、1000年以上も続いていた政治の中心地は、館山(安房)、市原(上総)、市川(下総)であった、下総国の千葉郡が千葉県の由来(p95)

・関東でも中心地は、相模原市(相模国)、市原市(上総国)、市川市(下総国)、府中市・国分寺市(武蔵国)であって、東京都心部は閑散とした村であった(p102)

・日米通商通商条約では、当時既に開港していた箱館と下田に加えて、神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港されることになった、下田港は神奈川港開港後に閉鎖、新潟は明治後、その港名はそのまま県名として使用された(p108)

・山梨県の前身の甲斐国は、享保9年(1724)に柳沢吉里が大和へ転封となってからは、甲斐国全体が幕府の天領(御三卿の領地)となったので、甲斐府が置かれた(p114)

・甲府は、甲斐府中の省略形、東京の府中市は、武蔵国の国衙が置かれた地名であり、府中とは滅多につけられるものではない、駿河国府中は駿府となって今の静岡市につながる(p118)

・京都は東海道53次の出発点と教えられてきたが、以前は山陰道に向けての出発点であった(p165)

・明治9年の改定によって、奈良県、鳥取県、香川県、宮崎県等、多くの県が消滅したが、この4県のみ復活した(p167)

・古事記に示されている「大八嶋の国」とは、1)淡道(淡路国)、2)伊予之二名(四国)、3)隠岐、4)筑紫(九州)、5)伊岐(壱岐)、6)津島(対馬)、7)佐度(佐渡)、8)大倭秋津洲(奈良県御所市付近)、である(p205)

・淡路島で起きた稲田騒動(1870)が四国に及ぶのを避けるために、淡路島を四国から切り離して兵庫県に編入した(p213)

・廃藩置県において、律令時代から1000年以上も使われてきた旧国名を完全に排除したのが特徴、明治政府の姿勢が現れている(p258)

2010/11/14作成