・関ヶ原の戦いは、善(家康)と悪(三成)の単純な戦いを意味するのではなく、石田三成・毛利輝元を中心とする反家康グループと、家康とそのシンパの武将を中心とする家康グループの当時の国政の最高レベルの熾烈な権力闘争である。(p9)
・本書における新しい視点は、1)石田三成~関ヶ原の戦いまでの政治体制を石田・毛利連合政権である(家康は公儀から外されている)、2)東軍西軍ではなく、家康vs反家康グループの戦い、3)戦い前夜は「私戦の復活=惣無事令体制の崩壊」である(p11)
・6月16日に家康が上杉討伐のために大阪城を出陣してから、9月15日の本戦を経て、各地(東北、九州)での戦いが終息する11月頃までの5か月の長期の戦いであった(p23)
・関ヶ原の戦い(本戦)に対する支戦としては、1)伊達、最上が関係した東北での戦い、2)前田が関係した北陸での戦い、3)黒田、加藤が関係した九州の戦いがある(p26)
・家康の大阪城出陣から1か月後の7月17日に大阪三奉行(長束、増田、前田)が出した「内府ちかひの条々」13ヶ条を諸大名に出して家康を政治的に弾劾したので、家康が公戦に偽装したのが失敗した(p37)
・石田・毛利連合政権は、2大老(毛利、宇喜多)と4奉行(石田、長束、増田、前田)という体制で政権中枢が構成されている、これは家康が秀吉の後継者である秀頼を見捨てたので、家康を豊臣公儀から排除したことを天下に明示した(p95、98)
・毛利輝元が大阪城西の丸に入城して、それまで残っていた家康の留守居500人が追い出されて伏見城へ移っている、その後、石田・毛利連合軍が伏見城を攻め落とした(p99、103)
・細川忠興の改易処分は連合政権の成立直後に実施された、但馬・丹波国の諸大名は丹後国への出陣を命じられている(p105)
・南宮山に展開していた毛利秀元などの部隊は、大垣城の救援(石田軍が籠城を続けた場合の後詰)が目的であり、関ヶ原の戦いには参加していなかった(p156)
・徳川家康の動員兵力は、76,700人を超えるが、秀忠別働隊(38,000)を差し引くと、関ヶ原の戦いに参加した家康直属軍は38,710人となる(p164)
・石田軍の人数は少なく(寝返り分を加えても46,000)、家康連合軍(87,000:南宮山への備えた人数を差し引いた数)の半分程度であったので、決着が1日でついてしまった(p165)
・江戸城普請における公儀普請奉行は合計8名であるが、秀忠から4名、大御所から2名、豊臣から2名であり、慶長11年当時の公儀が二重体制であったことを明確にしている(p182)
2011/8/13作成