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summary

関ヶ原合戦の真実 新解訳 脚色された 天下分け目の戦い

関ヶ原合戦の真実 新解訳 脚色された 天下分け目の戦いの写真

・石田三成方の諸将が打って出て戦ったという記載がなく、まさに布陣しようとしたところを小早川秀秋が裏切ったので敗北した、という記載が注目される(p17、41、83,84)

・関原始末記の記載は、当代記よりも、記載量がはるかに多くなり、諸将の動きが非常に詳しく記されている(p24)

・現在の我々がよく知っている関ヶ原合戦像は、当時の真実を伝えるものではなく、後世の江戸時代に軍記物などの編纂資料の内容をもとに誕生したとみなせる(p28)

・関ヶ原合戦以前の時点で、慶長5年(1600)7月に、石田・毛利連合政権が成立し、家康は公儀から排除された(p34、149)

・鉄砲の撃ち合いの後はすぐに白兵戦へ移行した、この場合、1500石クラスの武士でも、実際に鑓で戦った(p58)

・通説では、鉄砲→弓矢→長柄槍→白兵戦→追撃戦、であるが、鉄砲から白兵戦となっている(p59)

・通説で裏切ったと指摘されている、赤座・朽木は記載がない点は留意される(p82)

・小山評定について、同時代の一次史料には直接言及されていない、家康が7月25日に小山へ来るように命じた書状は一通も残っていない(p95、99)

・岐阜城攻城における家康方諸将の構成が、そのまま関ヶ原の戦いでも展開された(p109)

・問鉄砲の話は、関ヶ原の戦い当日の状況を伝える一次史料には記載がない(p122、151)

・我々が良く見る布陣図は、明治時代になって参謀本部ば創作したフィクションであることが明確になった(p198)

・関ヶ原の戦いは、「石田・毛利方の公儀軍」対、「公儀から排除された家康方の軍勢」という対立となる(p220)

・関ヶ原合戦において、家康に味方して戦った部将は、それほど多くない。徳川家以外では、東海道外様グループと、遠国外様グループの合計4万人程度、石田・毛利連合政権が動員できたのは、19万人(p223)