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summary

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (SB新書)

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (SB新書)の写真

・当時の日本で大砲を造れるのは、豊後の大友宗麟のみ、彼は西洋からの武器を輸入するため、国を挙げてキリスト教の受け入れをした、そのためイエズス会は大砲の鋳造方法を教えた(p13)

・信長は絶対に他の武将とは異なることをしていたキーワードは、1)寺:仏教寺院を迫害、2)城:居城を何度も替え新しく巨大な城を造り続けた、3)港:領地よりも重要視した、である(p16)

・当時はアンタッチャブルであった寺院に、信長だけは聖域とされていた寺社に手を出した、抵抗は大きかったが、その分、実入りも大きかった(p19)

・商人は、座に属さないと商売ができなかった、鎌倉時代中期からあらゆる職業に「座」が作られていた、布・酒・油等の販売業者だけでなく、建設・運輸・芸能関係まで(p29)

・信長は別の市をつくって、地子銭を廃止した、ただし冥加金はとっていた、街が発展すれば冥加金の収入も増える(p32)

・上杉謙信は、柏崎と直江津の2つの港の関税収入のみで、年間4万貫(10万石の年貢収入)に及んだ(p35)

・今川義元との知多半島をめぐる抗争の最終章が「桶狭間の戦い」である、その直前には知多半島の根元にある大高城をめぐって攻防戦を繰り広げていた(p39)

・「防御御札」がある場所では、軍は陣を構えたり狼藉は禁止されていた、信長は「防御御札」による「判銭」や「制札銭」と呼ばれる税金を収入源とした(p41)

・1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリヤス条約は、キリスト教を布教することを条件として、ポルトガルとスペインで世界を二分してよいというもの(p44)

・イエズス教会の宣教師は、布教活動と交易をセットで行っていた、ポルトガル貿易の取引額は、1570~1630年までに、290万から440万クルサド(100万石の年貢収入)であった(p45)

・南宋が滅んで(1279滅亡)からは、元王朝が紙幣使用を強制したため、中国で使い道のなくなった銅銭が大量に日本に流れ、これが紙幣として流通するようになった(p53)

・金貨銀貨の流通は、金や銀の生産とは関係がない、信用できる政権が貨幣の使用を働きかけることが、貨幣の流通を促すいちばんの近道、武田信玄が甲斐で金貨を造っても流通しなかった(p59、67)

・信長が楽市楽座を行ったのは、加納・安土・金森等の領地の一部のみで京都では未実施、この政策の意味は、日本の商業に価格破壊をもたらしたこと(p77)

・一般には鉄砲は種子島からもたらされたと思われているが、1510年には中国、朝鮮経由で、1510年に銅製の火縄銃がもたらされている(p82)

・信長が目を付けた港は、堺(100万石以上の収益可能)・大津・草津であり、副将軍や管領職には遠く及ばない魅力があった(p85、90)

・信長が堺・大津・草津に代官を置いたことは、東国の大名にとって、西日本からの交易ルート(特に弾薬の原料となる硝石)を完全に押さえられたことを意味する(p94、98)

・戦国時代の8大財閥のうち4つ(山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔)は自社関連で、興福寺以外は比叡山関連であった、これらが撰銭令(粗悪品の銭に対する取扱い)の対象になった(p106)

・重要な商品は自社によって牛耳られていた、酒は比叡山、織物は祇園社、麹は北野社、油は南禅寺(p113)

・信長の延暦寺焼き討ちの140年前には、延暦寺(比叡山)は園城寺に因縁をつけて焼き討ちにしたことがあった(p118)

・石山本願寺は頑強な抵抗を続けてついに、徳政令適用除外の特権を得た、これは商人保護であり商人が集まってくることになった、さらに諸公事免除、治安権も取得して、独立国家のようであった(p120)

・本願寺等は門徒を招集することで数万人の兵を動員できた、これは数十万石の大名に匹敵する、また寺院そのものが要塞であった(p126)

・近江は太閤検地のときに78万石であり、陸奥国についで二位であった、面積比から見るとダントツのトップ(p135)

・信長が天下統一目前までいくことができたのは、善政(価格低下により生活が豊かになった等)のおかげ、領民から支持されていないと一揆や反乱により他国へ攻め込むことは不可能(p163)

・明から銅銭が入ってこなくなったため、年貢を銅銭で納めるのは不都合になり、年貢を銅銭で納める貫高制から、1577年以降の越前検地から米で納める石高制に転換した(p169)

・信長は庶民には減税、金持ちから税金をとる方針であり、それが、楽市楽座・京都の地子銭免除・比叡山焼き討ちであった(p171)

2011/8/14作成