・京都といえば、千年の都というイメージが強く、平安京の形がそのまま受け継がれているように思っている人がいるが、実際は、現在の京都は秀吉の時代に原型が作られている(p6)
・平安時代の中頃から、左京と右京に分かれた都市域のうち、西側の右京がしだいに都市域として使用されなくなり、人々が東側の左京に集まるようになった(p22)
・洛中とは、平安京の「左京(東京)の中」を意味する、左京のことを「洛陽」右京のことを「長安」といったことに由来する(p30)
・惣町、町組、町(5つの町組に各々年寄がいて、5人の年寄により惣町が形成)というものが、信長の支配と対峙できるほどの能力を備えた社会集団であった(p106)
・応仁・文明の乱によって洛中は焼け野原になってしまったかのようなイメージがあるが、実際はその後の大火や戦乱による被害のほうがはるかに大きい(p113)
・信長の頃の信仰のありかたは、師檀関係といって、ひとりの宗教者とひとりの信者との間の1対1の関係で成り立っていた、江戸時代以降に見られるように、寺院と家と言った集団同士で成り立つ寺檀関係ではなかった(p120)
・信長対策として京都の寺院が集めた銭(喜捨)は、1200貫文、米1石=1貫(20万円)とすると、2億4000万円であり、これが10日ほどで集められた(p135)
・義昭御所は、石垣が用いられた二重の堀をもつだけではなく、天主と呼ばれた「三重櫓」も備えた、近世的な城郭の先駆けと評価できるもの(p157)
・信長が最も頻繁に宿所として使ったのは妙覚寺、本能寺は1580年頃からのわずかな時期(p160)
・信長は本拠地を京都におくことなく、美濃の岐阜城や近江の安土城であり、京都と一定の距離を保つことのできる場所であった(p161)
・信長の方から見れば、乱暴狼藉とはいっても、それは延暦寺大衆や上京など、敵とみなした者たちに限定される、下京など敵対しないものについては行っていないが、信長とその軍勢と京都の人々の間には埋めることのできない溝ができていった(p194)
・1576年頃の信長は、源頼朝や室町将軍と同様に、武家の棟梁として京都の人々に臨むことになった(p202)
・本能寺の変の頃の信長は、すべての官職を辞任していたが、官職や位でいえば信長よりも上位の公家も「礼」に参上していたことから、このころの信長は武家の棟梁を超えた状態(天下人)という言葉にふさわしい地位になっていた(p205)