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summary

信長政権 本能寺の変にその正体を見る (河出ブックス)

信長政権 本能寺の変にその正体を見る (河出ブックス)の写真

・永禄12年(1569)の木下秀吉との連署状において、秀吉が日付の下、光秀が奥に署名をしている、奥に署名をするほうが身分が高いので、この当時は光秀は秀吉より高い地位にあった(p37)

・信長は中世的権威を否定して近世への道を切り開いたと言われるが、政治運営については、旧来の勢力の出方を見ながら慎重に進めたと考えられる(p38)

・光秀は義昭に仕えているというよりも、信長から派遣された「付家老」的な要素が強い(p45)

・長宗我部元親と信長が結んだ背景には、阿波や讃岐で抵抗する三好氏の存在があった、かつて細川氏がその地域を主語として君臨していたが、16世紀半ば以降に家臣である三好長慶が台頭した、その三好氏が信長に反抗していた(p52)

・天正10年(1582)、信濃の木曽義昌が同盟関係にあった武田勝頼を裏切り、信長方についた。勝頼はこれを討伐すべく1.5万の兵を遣わせた。義昌の援軍要請を受けた信長は、信忠を派遣してついには勝頼を死に追い込んだ、この時活躍した滝川一益は関東管領の地位を手に入れた(p82)

・天正3年(1575)、信長は従五位下に叙されて昇段を果たした、翌年11月には権大納言と右近衛大将を兼ねた。近衛大将とは、幕府の「唐名」、朝廷は信長を将軍と同じように処遇した(p176)

・天正6年、信長は突然、右大臣兼右近衛大将を辞したが、重要なポイントは、正二位を返上していないこと(p179)

・天正10年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣命暦の不正確さを再確認した。信長が三島歴への変更を迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであった(p188)

・明智が攻めてきた時に信長が発した有名な言葉(是非に及ばす)は、今では、是非を論じるまでもない、もはや行動あるのみ、という解釈がなされている(p209)

・本能寺の変の後に明智に付き従ったのは、旧若狭守護の武田元明と、旧近江半国守護の京極高次であった、他の大名(筒井順慶・細川幽斎)は拒否した、このことから黒幕説は成り立ちにくい(p214)

・秀吉と光秀の対決ではあったが、総大将は信孝であった、なので摂津富田で信孝を待った(p222)

・本能寺の変後、さまざまな側面で無計画性を露呈した光秀には黒幕は存在せず、単独犯であると考える(p224)

・統治を任された配下の大名たちは一定程度の自立性はあったが、譜代や一門が優遇されたのに対して、外様は絶えず危機感を抱いていた、荒木村重・別所長治はその代表であり、謀反の危険性は絶えず内包していた(p232)