・8世紀になって律令体制がほぼ整ってくると、東北地方の日本海側に住む人々を「狄(てき)」、太平洋側に暮らす人々を「夷(い)」といい始めた、これは中華思想の影響、北狄・南蛮・東夷・西戒と卑しめる言い方と同じ(p50)
・陸奥守は、8世紀には鎮兵を指揮する鎮守府将軍と兼務の官、多賀城は奥羽両国を統括する陸奥出羽守按祭使がおかれたので、出羽国も統括した(p55)
・9世紀の中ころには、桓武天皇は「徳政論争」といわれる議論を裁定して、蝦夷への制圧政策を放棄した(p56)
・富士川の合戦では平氏軍は敗走するが、これから3年近く都を守り続けていた理由は、平家物語の記述とは異なり、馬を駆けさせながら馬上で矢を射る「馳射(はせゆみ)」の技術は平氏軍のほうが上だったから(p63)
・軍隊の構成員の3-4割は乗馬していたが、そのほとんどは弓矢を主武器にしていた、実際は3-4騎がそれぞれに徒歩の護衛をつけてグループでの集団戦闘をおこなっていたのが実態(p78)
・当事のキリシタン宣教師たちの本国への通信に、日本人は戦うときには馬からおりる。我々は戦うときに馬に乗る、と書かれている。戦国武士たちは、馬とは移動手段と考えていた(p98)
・幕末になって、「庶民は刃渡り2尺以上の刀を差すな」という法令があった、大脇差を帯びて歩く者が多かったから(p106)
・実際の江戸時代は身分の流動性も高く、幕府では、御家人へ庶民から、御家人から旗本への登用は珍しくなかった、幕末には株売買により旗本までなれるようになった(p113)
・水野忠邦のとった防衛構想の1つとして、印旛沼の掘削工事がある、英国海軍が長江を封鎖したという情報から、江戸湾の封鎖を恐れた(p119)
・江戸時代の貨幣の換算率は、1両=60匆=4貫文(4000文)と決められたが実際は相場によって動いていた、19世紀はじめの文化文政のころは、すでに1両=6000文前後になっていたので、1両=20万円程度と考えられる(p134)
・戊辰戦争時の旧幕府軍の公称は1.5万人、西洋式訓練を受けた2個大隊のほか、歩兵9個大隊もいたのに対して、新政府軍は、1600人程度(薩摩)と1000人(長州)程度であった(p154)
・兵力に勝り、戦意も旺盛、装備も優秀だった幕府軍が負けた理由は、高級指揮官たちが戦争を知らなかったから(p157)
・普仏戦争でプロシアが圧勝しておりドイツ式が良いことがわかっていたが、フランス式を採用したのは、ドイツ語を話せる人材がひどく少なかったから(p164)
・歩兵隊大尉の朝廷での官位では、正七位(藩の職では正四等=中隊長、月給20両)、中尉は従七位=小隊長、少尉は正八位、朝廷官位最下級の大初位(だいそい)=伍長の月給は3両(60万円)であった(p165)
・ポツダム宣言の第五項は、「吾等の条件は左のごとし」と書かれていて、無条件どころか「条件付」を明示することが書かれている、無条件降伏を迫られているのは、日本国の軍隊のみ(p239)