・ものごとを理解するためには、車の両輪のように「知識」とその知識を行かすための「思考方法」の二つがそろう事が大事、歴史を学ぶ上で必要な「考え方」「見方」を紹介していきたい(p5)
・「乱」は軍事蜂起を伴う国家(天皇)への反抗であるのに対して、「変」はときの政権の転覆工作である(p22)
・鎌倉幕府に相当する武士の政権のことを、朝廷では「関東」とか「武家」と呼んでいた。幕府側の武士たちも「幕府」とは言わず、「鎌倉殿」と称している(p30)
・藩という言葉が頻繁に使われるのは、幕府がなくなった明治初年から4年の廃藩置県までのわずかの間。この時には、藩主の居所である城・陣屋の所在地を藩名とすることになったので、薩摩藩の正式名称は鹿児島藩(p31)
・天武天皇の孫の文武天皇の時代、701年の遣唐使がはじめて対外的に「日本」をなのるが、その勢力範囲は、まだ東北中部以北、南九州は入っていない(p35)
・桶狭間の戦いにおいて、「信長公記」に奇襲攻撃のことは全く書かれていていないので、奇襲説に疑問を呈した・正面攻撃をし、押された今川軍の前軍が後方に逃走したため、義元の本陣までが混乱した(p50)
・忠臣蔵の時代背景において、喧嘩両成敗が武士時代の常識となっていたことを知らないと事件そのものを理解できない(p52)
・足利尊氏は後醍醐にかえて光明天皇(北朝)をたてて1338年には征夷大将軍に任じられて京都で政治を行う。後醍醐天皇は奈良の吉野山にのがれた、現代の天皇家は北朝系統だが、「大日本史」においては南朝を正式な王朝としている(p105)
・桃山は、秀吉が関白を辞めた後に、伏見に築いた城のあった地の呼称である、伏見城の跡地に桃が植えられて「桃山」と呼ばれた(p107)
・直系とは、父子で皇統を継承していくことで、天皇と皇女との間に生まれた子供こそが「直系」として皇統を続ける資格のある天皇ということ(p125)
・摂関制度は長く続き、藤原道長の子孫である5摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)から出た。廃止されるのは王政復古の大号令が出たとき(p152)
・鎌倉幕府は地方に守護と地頭をおいた、それまで地方は「荘園公領制」であり、国家の機関である「国衙」と、その支配を受けない「荘園」で構成されていた。守護は東国の国衙の支配権をひきつぎ、荘園の管理を行う下司には地頭が任命されることが多かった。ただし、西国では国衙・荘園が残っていた(p166)
・惣領制とは、それぞれの武士団の宗家を首長とし、分割相続によって成立した分家も宗家を中心に結束する体制、所領を細分化させないために嫡子単独相続が行われる(p177)
・室町幕府には鎌倉府(鎌倉公方)があり、東の幕府といってよいほど独立性の高いものであった。室町幕府は、将軍・有力守護連合の政権である(p182)
・室町幕府が弱体化するのは、1467-1477年にかけての応仁・文明の乱、管領畠山家の内紛が契機となり将軍家の家督争いがからみ、有力守護の細川氏と山名氏が介入して、各地の守護が細川(東)と山名(西)に分かれて戦った(p183)
・太閤検地によpり、耕作から離れた兵と武器を使うことを否定された農が分離される体制を、近世社会の本質と考えられる(p196)
・1575年11月に朝廷は信長に、従三位・権田大納言、そして「右近衛大将」に任じた、これは室町将軍に匹敵する官位、朝廷が信長を室町幕府の後継者として認めたことを意味する、秀吉にも同様に与えた(p197,199)
・秀吉の場合は、摂関家同士の内紛に介入して関白の地位を受け継ぐことを表明、ついに従一位・関白となった(p199)
・1603年に家康は、秀吉の直轄地は武家政権の財産だということで江戸幕府に接収、このため秀頼は、65万石の一大名になった(p206)