・江戸時代の経済社会は「米本位制」はじめに税制ありきで、人々の生活・生産活動すべてに枠をはめていた。一方で農民以外の江戸や城下町の町民はあまり税金を納めることなく、自由な生活。江戸京都大阪の周辺の農地は統制は緩やかだったが治安維持が悪かった(p15)
・田沼意次は重商主義の正しい方向へ舵をきろうとしたが、それを失脚させた松平定信は寛政の改革でそれと反対の方策をした。一部の地方が他方の犠牲で豊かになることはある(p17、19)
・現在の日本の不振は、1970年から財政支出が増えたにも拘わらず、税収構造を確立できずに、綱紀粛正と倹約でごまかして慢性的財政赤字となったところからきている。松平定信が陥った再現である(p21)
・カトリック教徒はキリスト教の布教も一緒にやろうとしたが、プロテスタントは布教はしないという約束で、オランダに貿易を限定。日本人が海外に出るのは、対馬の人が朝鮮にいくときだけ(p33)
・ナポレオン戦争の終結とともに、オランダはスリランカやケープタウンをイギリスに譲る条件で、インドネシアなどの植民地を取り戻した(p40)
・徳川吉宗は、安易に加増・減封をしないかわりに上納金を納めさせる政策とした(p43)
・遠隔地の幕府領と、江戸・大阪周辺の大名領や旗本の知行地を交換してしまおうというのが「上知令」であった(p45)
・仮にフランスが沖縄をとれば、五島列島をイギリス、対馬をロシアが支配するといった可能性はあった(p56)
・ペリー来航に対して、吉田松陰がペリー艦船に小船を横付けたり、遊園地にあるような蒸気機関車を幕府へ献上というのは、翌年の再来航のとき(p57)
・海防の観点から見ると、脆弱な江戸・東京という都市に首都を置くことは、太平洋戦争に至るまで常に日本の国防の致命的弱点であり続けた、主要国の首都で港町はほとんどない。この点、大阪・名古屋は大丈夫(p60)
・御三卿は御三家と並ぶ将軍後継有資格者のポストとしたが、領地も家来もほとんどなしで、プリンスの生活の面倒だけ見るというエコノミーな仕組み(p61)
・老中を出すのはだいたい10万石以下の大名で、阿部正弘の福山藩、西尾藩(松平)、上田藩(松平)、長岡藩(牧野)、古河藩(土井)であった(p65)
・井伊家は遠江の名門で、家柄的には松平家と対等以上であった(p79)
・井伊直弼、山内容堂、島津久光、毛利敬親といった国元生まれで殿様になる予定もなかった大名に共通して言えるのは良い意味で「下々の事情」に通じていたこと。何でもできる習慣もできていた(p82)
・全国では6%程度の武士の割合であるが、薩摩では人口の4分の1が武士、つまり全国の武士の10%は薩摩藩士(p97)
・参勤交代の緩和により江戸にいた大名の家族が領国に住めるようにした、すると母と娘が別々に住むことになったり、事実上の首都や社交生活の場としての機能を失っていった。それば明治4年の廃藩置県により東京に戻ってくることができた。廃藩置県が円滑に進んだ理由の一つ(p140)
・京都守護職の会津藩士とは、京都府警の応援にきた福島県警というもの、死んだり怪我をしたら補償も必要で高コスト。なので安上がりで違法捜査も平気な新撰組を雇った(p160)
・会津藩士は遊郭や町中で財布のひもが固すぎた、長州藩士は金払いが良く、人気が良かった(p165)
・幕末の300藩を仔細に調べると、王政復古の中核になったのは西南雄藩のみ、敵役は佐幕を突き通した奥州列藩同盟に参加した藩で、殆どは日和見(p229)
・木戸孝允は、京都を帝都、江戸を東京、大阪を西京として、これを鉄道で結ぶべしとした(p254)
・数千年にわたり皇室の恵みを受けてきた京都とは異なり、関東は古来より皇室の恵みを受けることがなかった、三条実美がかいた東京遷都の考え方(p256)
・明治2年3月に天皇は京都を出発し、3月28日に東京入城、太政官をここに置いた。10月に皇后が京都から出発するときも、京都府は「遷都ではない」と論告している。翌年3月には「西還延期」が発表されたのみで、東京遷都は発表されていない(p257)
・対外貿易の中心である神戸と横浜に県庁を置きたいが、それぞれ旧国でいえば、摂津と武蔵の一部なので、摂津の一部に播磨・但馬・丹波の一部をつけて兵庫県、武蔵の一部に相模をつけて神奈川県とした。そのため、姫路・小田原にとっては気の毒となった(p262)
・県の名前は、県庁所在地の地名を使うのが原則だったが、途中から所在する「群名」と使うことが多くなった(p263)
・太陽暦採用に伴い、明治5年(1872)12月3日をもって、明治6年1月1日とした。(p268)