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summary

京大芸人式日本史

京大芸人式日本史の写真

・登呂遺跡は、それよりも大きい佐賀県の吉野ケ里遺跡が発見されるまでは、日本一有名だった環濠集落(敵から身を守るために、堀や柵をつくって村の周辺を囲む)であった(p22)

・天智天皇が都を大阪から滋賀に移したのは少しでも唐から離れたかったから、大宰府に水城という堀をつくったり、山城をつくったり、防人と言われる警備も置いたのはそのため(p48)

・壬申の乱に勝った大海人皇子は、天武天皇となって、飛鳥浄御原宮に都をうつして、飛鳥浄御原令を制定して、日本最初の法律とした(p49)

・農民は土地を貴族に寄進した理由として、貴族が持っている土地(荘園)は、税を払わなくていい・役人が入れない(不輸・不入の権)があったので(p71)

・朝廷(天皇)と、院の間で争いが起きたのは、社長と会長が喧嘩したようなもの、保元の乱では、後白河天皇と崇徳上皇である、勝った天皇に味方していたのが、平氏の平清盛、源氏の源義朝、である、買った両者が戦争したのが、平治の乱(1159)である(p76)

・鎌倉時代の始まりは1185年から、国ごとに守護(国ごとの武士の責任者)と地頭(荘園ごとの責任者)を設置した年、1192年は頼朝が征夷大将軍になった年(p83)

・源義経を捕まえるためにできたのが、守護と言われる職である(p87)

・元寇の戦いにおいて、御家人たちはハイリスクハイリターンの戦いに対してテンションが低かった。そこで幕府は徳政令をだして、借金を帳消しにすることを認めた(p91)

・応仁の乱は、最後のほうで、どちらかが勝ったのか決着がつかなかったところが問題である、これを通して誕生したのが戦国大名である(p103)

・これ以上浪人を増やしたくなかった4代将軍は、武力によって厳しく取り締まる政治から、道徳や秩序、礼儀を重んじる、文治政治に変えていった(p124)

・幕府はペリーの開国要求に対して、朝廷や全国の藩に意見を聞いた。これが、朝廷の権威を高めたり、全国の藩の力を強めたりして、討幕につながることになった(p137)

・五箇条のご誓文が書かれた同じ時期に、庶民に向けては、一揆やキリスト教の禁止について書いてある、五榜の掲示、が建てられた(p142)

・地租改正により、全国の土地の値段を決めて、その3%を現金で政府に払うようにした(p144)