・日本はアメリカにこそ敗北したが、その過程でオランダを踏みつぶし、大英帝国と刺し違えている、日本と戦ったがゆえに、オランダもイギリスもその版図を失った(p21)
・死刑制度は被害者遺族救済の側面がある犯人の死刑執行により心の決着をつけて、遺族は次に進めると考える(p30)
・ペルシア戦争、アレキサンダー大王、五賢帝の3つは、ヨーロッパ古代史の例外で、欧州がアジアに優越していた(p34)
・330年にコンスタンティヌス帝は、ローマからコンスタンティノープルへの遷都を決断し、395年に帝国は東西に分裂する。ローマ帝国は、西欧を切り捨てて生き延びようとした、西ローマ帝国は476年に滅亡する(p35)
・北方十字軍は、16世紀まで続き、スウェーデン、デンマーク、そして東プロイセンのドイツ騎士団を従えたポーランドが大国化していく(p41)
・イエスキリストはキリスト教の創始者ではない、生涯を通じてユダヤ教の改革派、パウロがキリスト教の創始者に仕立てた。ローマ教会が常にキリスト教会の頂点に位置したわけでない、東ローマ皇帝は、キリスト教と世俗の双方の頂点に立った(p42)
・異端の罪は異教の罪より重い、というのがカトリックの理屈(p43)
・フランス革命までパリの知識人の日常語はラテン語だった(p44)
・ルクセンブルク家は、百年の間に三代、神聖ローマ皇帝を輩出したヨーロッパ随一の名門である、だから独立国としていまも存立している(p50)
・ルネッサンスで主唱された「ヒューマニズム」は、人道主義の意味ではない。主(God)ではなく、人間を価値観の中心に据えるように、カトリックの教えにとらわれて生きるのをやめようという運動である(p53)
・贖宥状が許せなかったのは、プロテスタントの教義の本質は豫定説であり、天国にいくいかないは、人間に自由意思はなく教皇に贖宥状を発行する権利はないということ(p55)
・まず貿易商人が、次に宣教師が、最後に軍隊がやってくる。貿易で関係を持ち、その土地の住民を改宗させて手なずけておけば、領主に逆らうので簡単に軍事占領できる(p58)
・奈良時代にキリスト教は伝来していたが、景教ことネストリウス派であり、三大キリスト教宗派(カトリック、プロテスタント、正教会(オーソドックス))の全てがネストリウス派を異端としているので、日本のキリスト教徒が認めない(p63)
・宗教的狂熱から覚めた君主たち(イングランドのヘンリー8世やエリザベス1世、フランスのアンリ4世、ネーデルランドのウィルレム)はローマ教会の影響を排除しようとした、絶対主義の形成である(p63)
・1493年に教皇アレクサンドル6世が、トリデシリャス条約を制定、教皇子午線より東はポルトガル、西はスペインとしたが、異を唱えた国が2つある。イングランドと日本(p65)
・アルマダ撃破は日本では、スペイン無敵艦隊撃破とされるが、イングランド艦隊の精強さよりも、神風が勝利をもたらしている。アルマダは大艦隊の意味(p66)
・インドネシアではイングランドがオランダ海軍に完敗し、東アジアから100年の撤退を強いられていた、カトリックを敵視した日本人は、プロテスタントのオランダと通商を続けた。江戸幕府はカトリックを禁止した(p69、70)
・カトリックは主(GOD)を万能の絶対者として「奇跡」を根拠とする、プロテスタントは「豫定」を根拠とする。有色人種は天国に行けるように定められていないので、布教という無駄なことはしない(p70)
・朝廷と幕府の有力者を護衛していたのが、奉行衆(足利義教政権の親衛隊)で、戦国時代は応仁の乱ではなく、明応の政変において奉行衆が解体されたことに始まる(p78)
・応仁の乱は他の全ての大名を没落させたが、堺商人の利益を代表する細川氏と、博多商人のそれである大内氏だけは勢力拡大した(p74)
・30年戦争は最後の宗教戦争で、その和約である、ウェストファリア条約(1648)により現代の我々が想像する近代国家が出来上がった、それまでに13度の戦争、10の平和条約が結ばれた。当時、欧州の公用語であったラテン語の不使用が提議され、各国代表は自国語を使用した(p82、84)
・戦争とは、宣戦布告で始まり、講和条約発効で終了する法的状態のこと。これは双方の合意により解放され終結する(p89)
・ウェストファリア会議において、「異教徒を殺さなくてよい」という画期的な一言を言い放ったのが、戦勝国スウェーデンのクリスティーナ女王、「殺してはいけない」という価値観が欧州で定着するのは、まだ数百年かかる(p99、100)
・教皇も皇帝も紛争の当事者となった欧州と違い、超然とした存在として天皇がいたことが日本では大きかった(p104)
・1571年のレパントの海戦勝利は強調されるが、1538年にプレヴェッザの海戦で大敗したことは語らない、地中海の制海権はオスマン帝国に握られたままなので、大西洋に飛び出すしかなかった(p112)
・1683年にオスマン帝国がオーストリア・ハプスブルク家の首都ウィーンを包囲すると、欧州の殆どの国が援軍をだして、帝国は撃退された。カルロヴィッツ和平条約で、戦勝国となるオーストリアはオスマン帝国領ハンガリーを割譲させた。欧州が東方アジアに勝利した瞬間(p112)
・北方戦争でスウェーデンを叩き潰したのが、モスクワ大公国のピョートル大帝(戦勝以前は大公)、この戦争を記念して、国号をロシア帝国とした(p117)
・1763年、講和条約であるパリ条約が結ばれた時、イギリスは欧州の最強国となっただけでなく、世界の最強国となった。英仏墺普露の欧州5大国が世界の五大国となった年(p121)
・イギリスは、7年戦争で大ピットが得たアメリカは失ったが、インドとジブラルタルは死守している、ここでは勝った(p124)
・中世以来のフランスは、北部が南部を侵略していく歴史である、北部の首都パリでは知識人の公用語はラテン語であるが、フランス革命後に、フランス語を話し、フランス国民という意識を持つフランス国家が形成されていく(p129)
・傭兵に依存した軍隊は、戦場で逃げないように密集隊形、軍楽隊の太鼓に合わせて移動するので遅い、大砲が主武器となる時代には不向き。ナポレオンは散兵戦術を採用した、国民軍は傭兵の3倍の機動力を持ち、大砲の集中砲火で敵軍を個別撃破した(p130)
・有色人種である日本がロシアに勝利したからこそ、国際法が真に国際社会の法となった、200年に及ぶ欧州世界支配に風穴があいた(p168)
・連邦離脱を明言する南部諸州に対し、リンカーンは奴隷制維持を餌に翻意するように工作する、これに南西部諸州は従ったが、南東部は無視し、アメリカ連合国の建国を宣言した(p172)